愛と正義の赤ちゃんごっこ【2ーA】
土曜の午後七時とあって、吉祥寺の街は活気に満ちている。塾で世界史の授業を受け終えた僕らは喧騒の中、駅へ向かってゆっくりと歩きだした。
「うわ、外は蒸し暑いね」
愛ちゃんはそう言って、制服の白セーターを脱いだ。それを腰元で緑チェックのスカートの上に巻くと、通学鞄を左肩に掛け、両手でパタパタと顔をあおぐ。街灯に照らされたブラウスに黒いキャミソールが透け、くっきりと浮かび上がっている。時折ちらちらと目をやっていたら、前方から向かってきた通行人とぶつかりそうになってしまった。
「そうだ赤地君、おとといの英語の宿題、ちょっと教えてほしいとこがあるんだけど」
くりくりとした目でじっと見つめられ、思わずごくっと喉が鳴った。
「あたしお腹空いちゃった。どっかで食べながらでもいい? 今夜は親が出かけてててさ、自炊するの面倒だし」
路上でギターを演奏している大学生くらいの年齢と思しい青年を尻目に、商店街を歩いていく。この辺りは目ぼしい店がいくらでもある。
「赤地君はどこがいい?」
特に食べたいものがあるわけでもないし、そもそも愛ちゃんと一緒ならどこでもいい。たまたま前方に見えたファミリーレストランを指差し、僕は答えた。
「あそこのファミレスでいいんじゃない?」
「え? ええっと……あ、それよりあっちにしない? 混んでるかな?」
愛ちゃんの指定したハンバーガーショップは、案の定非常に混んでいたが、幸い地階に二人掛けの席が空いていたので、僕らはそこに陣取って、ハンバーガー片手に英語の宿題に取り掛かった。
「うん、確かにこれは未来の話なんだけど、このuntilはほら、副詞節を導いてるでしょ? 時や条件を示す副詞節の中だと、単純未来を表すwillは使えない。だから正解は、二番のuntil my wife comes back homeだね。ちなみに、willには単純未来以外にも意志未来、つまり『何々しよう』って意味を表す用法もあるんだけど、その場合にはwillを使うんだ。たとえば『もし大学に行くつもりなら』って言いたかったら、“if you will go to college”ってなるわけ」
ハンバーガーのトレー紙を裏返し、そこに英文を書きながら、英文法の問題の解説をしていく。彼女は僕の解説にじっと耳を傾け、時おり笑顔を見せながらうんうんとうなずいてくれた。
「やっぱすごいね、学年トップは。あたしも英語は得意なほうだけど、赤地君には全然勝てないよ」
肩に掛かっていた髪を後ろに束ねながら、愛ちゃんは少し自嘲気味に言った。
「あのクラスは一番上だからさあ、正直、このままちゃんとついて行けるか不安なんだ。次の選抜テストであたしが落ちたら、その時は独りで頑張ってね」
「大丈夫だよ。一緒に頑張ろう」
「うん、そうだよね。頑張んなきゃね」
「一緒に」という言葉に、快く応じてくれた愛ちゃん。もしかしたら彼女も、僕に好意を持ってくれているのかもしれない。そう考えれば、一昨日からずっと続いている、この一連の幸運にも説明がつく。
入学式で一目見た時から、僕は一途に愛ちゃんを想い続けてきた。この気持を伝えれば、ひょっとして彼女も、僕を受け入れてくれるのではないか。
「そういえば赤地君、どこの大学目指してるの?」
ハンバーガーセットのサラダをつつきながら、愛ちゃんが僕にそう訊ねた。
「まだはっきりとは決めてないけど、最近興味があるのは一本橋(いっぽんばし)大学の社会学部かな」
「一本橋かあ。たしかあそこ、うちの学校からは一年に一人くらいしか受からないでしょ? てことは、再来年の一人は赤地君に決まりだね」
僕はうつむいて、紙コップの中の氷を掻き回した。
「あたしは無理だなあ、国立なんて。理数科目が壊滅的だもん」
「じゃあ、桃下さんは私立志望?」
「そうだよ。第一志望は教智(きょうち)の英語科。卒業したら通訳になるの。で、金髪に青い目のかっこいい人と結婚するんだあ」
金髪碧眼の西洋人。それが愛ちゃんの好みなのか。さっきまでみなぎっていた自信がにわかに失われていく。僕はごく普通の日本人で髪も眼も黒く、肌も地黒で黄土色に近い。顔の彫りが浅く貧相なうえ筋肉も骨格も貧弱で、西洋人的な要素など何一つ持っていない。身長は一七八センチだからそれほど低いというわけでもないが、それとて日本人の中ではそこそこ高いというだけで、西洋人と比べれば見劣りするのは間違いない。
僕とは違い、愛ちゃんは非常に色が白い。以前漢文の授業で習った白居易(はくきょい)の『長恨歌(ちょうごんか)』に、東洋における美女の象徴的存在である楊貴妃(ようきひ)の白くなめらかな肌を賛美する「凝脂(ぎょうし)」という表現があったが、あの言葉で形容しても大げさではないほど美しく白い肌をしており、その肌がダークブラウンの髪と絶妙の対照を成している。顔だちも日本人離れして彫りが深く、西洋人女性にも負けないくらい魅力的だ。それに可愛らしさという点では、大柄でゴツゴツとした西洋人女性よりもむしろ、小さくてむっちりとした彼女のほうが勝っている。
彼女のように魅力的な娘なら、どこへ行こうと決して放ってはおかれまい。金髪碧眼男の一人や二人、すぐに言い寄ってくるはずだ。そんな連中に、僕が太刀打ちできるはずはない。彼女が好意を持ってくれているだなんて、単なる勘違いだということか。
「とにかく英語を頑張んなきゃ。またわかんないとこがあったら、教えてもらってもいい?」
「ああ、うん、もちろん」
急に萎えてしまった僕を見て、愛ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、遅くまで無理に付き合わせちゃって」
「いや、そんなことないよ。桃下さんのおかげで俺も、俺も勉強になったから」
すっかり融けてしまった紙コップの中の氷水を、僕は一気に飲み干した。
「ねえねえ、赤地君ってさ、下の名前は何ていうの?」
「え、正義(まさよし)だけど」
「マサヨシ君っていうんだ。どう書くの?」
「正義と書いて、マサヨシだよ」
「あはは、待って、めっちゃかっこいいねそれ」
愛ちゃんは笑いながら、トレー紙の上にペンで「正義」と書いた。
「えっと、桃下さんの下の名前は?」
我ながら白々しいが、ついそう訊いてしまった。
「アイだよ。愛情の愛」
「へえ、そうなんだ」
「ねえ、マサヨシ君だから、マー君って呼んでいい?」
「え、うん」
「あたしのことは愛でいいよ」
「あ、愛、ちゃん」
「そそ。桃下さんより愛ちゃんのほうがいい」
そう言うと彼女はスマートフォンを取り出した。
「番号とか交換しよ?」
店を出て、駅に向かう愛ちゃんと「マー君」。彼女が僕をそう呼ぶ度に、嬉しくて、照れくさくて、にやにやしそうになるのを必死に堪える。
商店街の出口に差しかかったところで、彼女が立ち止まった。
「さっきマー君が行こうって言ったファミレスね、昨日まであたしが働いてたとこなんだ」
「そうなんだ。ウェイトレス?」
「そそ」
惜しいことをした。一昨日のうちに聞いていれば、愛ちゃんのウェイトレス姿を見に行くことができたのに。
「意外と大変だったんだよ。意地悪な先輩がいてね、なんでか知らないけど、あたしのこと気に入らなかったみたいで」
「そっか。じゃあ辞めてよかったね」
「でもね、明日あたしの送別会があって、その人も来るらしいの」
「仲悪かったのに?」
「うん。嫌いなら来なきゃいいのにね」
憂鬱そうな表情でうつむく愛ちゃん。こんなに暗い表情を見たのは初めてだ。
「ごめんね、勉強教えてもらった上に愚痴まで聞かせちゃって」
「そんな。また何か質問とかあったら、いつでも訊いて」
「ありがと。また一緒に勉強会しようね、マー君」
愛ちゃんは笑った。僕も笑った。たとえこれ以上の関係になれなくても、このままずっと一緒にいられれば、いいなあ。
駅で電車を待つ間、僕はスマートフォンの電話帳の『愛ちゃん』をずっと眺めていた。
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