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愛と正義の赤ちゃんごっこ【2ーB】

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【あらすじ・主な登場人物・もくじ】

 通訳の仕事は不規則だけど、それでも家にいる日は必ずごはんをつくってくれるお母さん。そんな母親のありがたみを想いながら、冷凍もののパスタで遅めのお昼をすませる。きのうの夜はハンバーガーで、きょうの朝はカップ焼きそば。お母さんがいない日の食事は、いつもこんなふうにテキトーになってしまう。

 食器を洗って時計を見ると、ちょうど3時になったところ。6時半に現地集合だからまだ時間はある。食休みもかねてマンガを読みながらゴロゴロしていたら、そのまま意識が遠くなった。

 鼻のつけ根が痛い。メガネをかけたまま寝てしまった。

「……ああっ!」

 とび起きてスマホを見ると、7時! 石黒さんからの着信履歴が8件もある。一瞬くじけそうになったけど、とりあえず電話をかけてみた。電波が届きにくいところにいるみたいで、3回かけてやっとつながった。

「愛ちゃん? どうしたの? いまどこ?」

「すみません。あの、いろいろあってまだ家なんです。ほんとすみません」

「いまから来れる? 場所はわかるよね? うちの店のむかいの居酒屋」

「はい、すぐ行きます」

 急いでブラをつけて、上はTシャツのまま下だけスウェットからデニムのスカートにはき替える。化粧はしないでコンタクトだけ入れてとび出し、自転車で全力疾走した。

 わざわざお店の前で待っていてくれた石黒さんに、私はもう一度謝った。

「ほんとすみませんでした」

「いいよいいよ。みんな勝手に盛りあがってるから」

 石黒さんの案内で、地下につづく階段をおりてお店に入る。いちばん奥の座敷にミドリさんと、たぶんミドリさんの友だちが3人、石黒さんの友だちが4人、石黒さんも合わせて全部で9人の男女がいる。どう見ても私の送別会じゃない。ただの合コンだ。

「はい、ほら、この子がきょうの主役だから!」

 石黒さんが大声で、みんなの視線を私にむかせた。

「じゃあ、まずは愛ちゃん、自己紹介を」

「ええっ?」

 見ず知らずの人たちが、私がなにか言うのをだまって待っている。なんの心がまえもできていない私はオドオドしながらしゃべりはじめた。

「あの、はじめまして。桃下愛です。あの、私は石黒さんとミドリさんのバイト先の後輩だったんですけど、バイトはおとといでやめちゃったんですけど、おふたりにはほんとお世話になりました。ありがとうございました。でも、家はお店の近くなんで、これからも遊びに行きたいと思います。あの、とにかく、ありがとうございました」

 どうにかスピーチを終わらせて、大げさな拍手が鳴りやむのをうつむきながら待つ。なんでこんなことになっちゃったんだろう。もう、帰りたい。

「とりあえず座りなよ愛ちゃん。ほら、そこ空いてるから」

 私は言われるまま、石黒さんのむかいに座った。長いテーブルのいちばん左側で、右どなりにはミドリさんがいる。

「愛ちゃーん」

 にこっとほほえむミドリさんにつられて、私も愛想笑いを返す。ゆるくウェーブのかかったダークブラウンでセミロングの髪に、清楚な感じの白いワンピースがよく似合っている。でも、小さな目のまわりにくどいくらいアイラインが引かれていて、ちょっと下品に見える。きょうはいつも以上に厚化粧だ。

「なんでお店やめちゃったの? さびしいよお」

 本当は私のことが嫌いなくせに、男の人の前だとミドリさんはいつもこんな感じだ。私はちょっとウンザリしながら「塾に通いはじめたんです」と早口で答えた。

 そのとき、石黒さんの左どなりの男の人に目がとまった。パッと見た感じ、日本人には見えない。短かめの黒髪マッシュ。黒目がちで、ちょっとユーウツそうな瞳。だけど肌はまっ白で、鼻筋がすっと通っていて、まゆ毛と目の間がすごくせまい。顔全体がこわいくらい、整っている。

 ぼーっと見とれていたら、思わず目が合ってしまった。私はあわててテーブルの上のメニューへ視線をそらした。

「やめろよギュンタ。愛ちゃんがこわがってるだろ」

 石黒さんに「ギュンタ」と呼ばれたその人は笑顔で、でも、やっぱりもの悲しい目で私に声をかけた。

「こんなこと言ってるけど、ほんとにこわいのは石黒のほうだから。気をつけてね、愛ちゃん」

「なに言ってんだよ」

 彼の頭をこづくと、石黒さんは私に向きなおって聞いた。

「愛ちゃん、飲みものなんにする?」

「えっと、じゃあオレンジジュースで」

 ちょうどお店の人が食器を下げにきた。石黒さんが注文をしている横でまた、彼が話しかけてきた。

「オレ、灰塚(ハイヅカ)。よろしくね愛ちゃん」

「あ、よろしくお願いします」

「みんなからはギュンターって呼ばれてるんだ。愛ちゃん、高校生だよね? どこの学校?」

「明晰(めいせき)学院です」

「明晰学院? ああ、あのミッション系の?」

「はい。灰塚さんは?」

「オレは石黒と同じ三田塾(みたじゅく)大の経済学部。ここにいる男はみんな同じだよ」

「すごいよねえ、三田塾ボーイ。超エリートじゃん」

 いきなりミドリさんが、灰塚さんと私の会話に割りこんできた。

「灰塚くんも3年生でしょ? 就職のこととか、もう考えてる?」

「いや、まだ全然」

「うちは三田塾みたいに有名じゃないから、あたしちゃんと就職できるか不安だなあ」

「愛ちゃんは? 将来どんな方向に進みたいの?」

 ミドリさんの話を無視して、灰塚さんが私に聞いた。

「通訳になりたくて、教智(きょうち)大の英語科をめざしてるんです。いまテスト期間中なんで、きのうも放課後塾に直行して、授業がはじまるまで自習して、授業がおわった後もずっと、友だちといっしょに宿題やって――」

「へえ、すごいねえ。あたしが高校生のころなんて、そんなに勉強したことなかったわあ」

 浮かれてしゃべりまくる私の話を、さりげなくさえぎろうとするミドリさん。口もとはゆるんでいても、目は全然笑っていない。

 そっか。ミドリさんがこの「送別会」に来たのは、別に私のためなんかじゃなく、三田塾大学に通うエリートの彼氏を見つけるためだったんだ。そしていま、ミドリさんのターゲットはたぶん、灰塚さんなんだろう。

 おそろしい圧力に負けた私は、おとなしくジュースに口をつけた。

「ねえ、愛ちゃんもちょっと飲んでみる? テキトーに注文したらいっぱいあまっちゃって」

 石黒さんに勧められるまま、私はカクテルを飲んでみた。

「これ、なんていうんですか?」

「カシスオレンジだよ」

「おいしいですね」

 なんだかジュースみたいで、すごく甘くて飲みやすい。調子にのった私は、2杯、3杯とグビグビ飲んでいく。

「愛ちゃん、顔まっ赤だよ。ちょっとこっちにおいで」

 急に席を立ったミドリさんが私を呼んでいる。せっかくいい気持ちになっていたのに。しかたなく、彼女の後についていく。

 洗面台の前に立ったまま、ミドリさんはだまって化粧を直している。なにを考えているんだろう。そう思いながら私も無言で顔を洗う。

「愛ちゃんさあ、灰塚くんのこと、狙ってるでしょ?」

 出た。とうとう本性を表した。

「ええっ? いえ、別に」

「ほんと、なにげないフリして男の人ユーワクするのうまいよね。石黒くんも店長も、愛ちゃんにはデレデレだったもんねえ」

「あのっ! 私、帰ります」

 そう言ってトイレをとび出した。これ以上ミドリさんとかかわるのは嫌だ。ちょっと後味が悪いけど、もう会うこともないだろうし別にいいや。

 座敷にもどると、灰塚さんはどこにもいなかった。せめてさよならだけでも、と思ったのに、先に帰っちゃったんだ。私はちょっとガッカリして、石黒さんに声をかけた。

「あの、私そろそろ」

「もう? まだ9時前だよ?」

「もうすぐ母が仕事から帰るので。私のぶん、いくらですか?」

「いいよカネなんて。きょうは愛ちゃんの送別会なんだから」

「すみません」

「それより、そんなに酔ってちゃ心配だから、オレが家まで送ってくよ」

「いえ、だいじょぶです。近いし、自転車は引いて帰りますから」

 逃げるように「お世話になりました」と言ってお店を出た。ほっとため息をついてから、ゆっくり階段をのぼっていく。ふみはずさないように、慎重に、慎重に。灰塚さんのことが、まだ頭から、はなれない。最後に、ひと目でいいから、会いたかったなあ。

「もう帰るの?」

 地上に出た瞬間、いきなり声をかけられた。ドキッとしてふり向くと、灰塚さんが立っていた。

「ずいぶん酔ってるね。家まで送ってこうか?」

「あっ、はい、お願いします」  

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