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愛と正義の赤ちゃんごっこ【3―A】

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【あらすじ・主な登場人物・もくじ】

 教室に響く笑い声がイヤフォン越しにも聞こえてくる。入学から一年以上経ったが、この空気にはいまだに馴染めない。食事とはあくまで栄養補給にすぎない、というのが僕の考えだ。それをわざわざ、皆で大騒ぎしながらする必要があるのだろうか。まあ、昼休みの教室で独りこんなことを考えているなんて、もしかしたら僕は社会不適合者なのかもしれないが。

 そもそも、日に三度も食事を取る必要性が感じられない。朝と夜にしっかりと栄養を摂取すれば、それで十分ではないか。『人間失格』の主人公ではないが、食事という形骸化した儀式に無駄な時間を費やすことが理解できないのだ。その時間に英語の勉強でもしていた方がよほど有意義だと僕は思う。

 愛ちゃんがこちらへ近づいてきた。僕は見て見ぬふりをして、英会話のスクリプトから目を離さないでいる。

「何聴いてるの?」

 たった今気づいたような顔で、僕はイヤフォンを外して答えた。

「英会話の教材だよ」

「リスニングかあ」

「来月英検の二次試験があるから、その対策なんだ」

「てことは、こないだの一次試験受けたんだ? 何級?」

「準一級」

「え、すごい。あたしも受けたけど二級だよ。もう自己採点した?」

「うん。たぶん合格点は越えたと思う」

「さすがマー君」

 机上の消しゴムを弄びながら、僕はちらりと愛ちゃんの顔を見上げた。今日は髪を耳の下で二つに結っている。小柄な彼女がこういう髪型にするとまるで中学生のようだ。

「カズー!」

 愛ちゃんに呼ばれ、速水さんがやってきた。よく愛ちゃんと行動を共にしている女の子だ。ショートヘアで背が高く、さばさばした感じが愛ちゃんと好対照をなしている。

「マー君がね、英検準一級受けたんだって。一実(かずみ)も受ければよかったのに」

「私は英語そんなに得意じゃないから」

「そんなこと言って、いつもマー君と二人でトップ争いしてるくせに」

「争ってないよ。トップはいつも赤地君じゃん」

 僕の横に来て前屈みになり、机上にある英会話のスクリプトをのぞきこむ愛ちゃん。ふわっと広がるほのかな香水、あるいはシャンプーの芳香にうっとりとしつつ、僕は反射的に襟元へ目をやり、その奥にある豊かな胸を凝視した。全体的には小柄でも、ここだけ見れば並みの大人以上に立派だ。

「あたしもマー君を見習って、ご飯食べたら勉強しようかなあ」

「ていうか赤地君、何も食べてないよね? 平気なの?」

 速水さんがそう言うと、愛ちゃんは僕の肩を軽く叩いた。

「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ。体の中で一番エネルギー使うのは脳なんだから、って、あたしもこないだ一実から聞いたんだけど。ねえ?」

「そうだよ。ちゃんと食べたほうがいい」

「それに今日は水泳大会だし」

 六月中旬というと一般にはまだプール開きは行われていないだろうが、屋内プールが設置されているうちの高校では、毎年この時期、学年別に水泳大会が開催される。泳ぎは苦手だが、もっぱら愛ちゃんの水着姿が見られるという理由で、僕はこの行事を少なからず楽しみにしている。男子生徒の中の下品な連中が、水泳の授業中によく女子の品評会をやっているのだが、彼らの間でも彼女は抜群に人気が高い。それもそのはずで、彼女は小柄にもかかわらず、僕の知る限り学年一豊かな乳房を持っている。彼女の身体がいやらしい視線で汚されるのは不快だが、僕も同類なので文句は言えない。

 五時間目の授業が終わった。着替えが済んだ者から順に、三層に分かれた体育館の最下層、地階のプールに集合し、まずは開会式が行われた。体育祭実行委員が競技に関する諸注意などを読み上げていく。

 競技に参加する時以外は、皆水着の上にクラス別のTシャツを着ている。愛ちゃんはB組のクラスカラー、青のシャツ姿だ。シャツの裾から露出している白くむっちりとした太腿は、僕の血流を速めるのに十分すぎるほど肉感的である。

 水泳大会では通常の授業と違い、リレーや水球、騎馬戦など、様々な競技が行われる。開会式が終わり準備体操をした後は、選抜チームによるリレーが始まる。愛ちゃんも僕も選手ではないので、僕はさり気なく彼女の横に坐り、一緒に泳ぎの猛者たちを見物することにした。

「愛ちゃんは泳ぎ得意?」

 そう訊ねると、彼女が少しはにかみながら答えた。

「うん。あのね、あたし一応習ってたの水泳」

「そっか。俺はあんまり得意じゃないんだよね」

 他愛ない会話を繰り広げながら、さり気なく彼女の脚に目をやる。ぴちぴちとして血色の良い、薄桃色の綺麗な太腿だ。

「あたしね」

 プールに響く喚声の中、彼女が少し声を上げて話し始めた。慌てて彼女の顔に視線を戻した。

「次の騎馬戦、出なきゃいけないんだ。軽いから担ぎ上げるのにいいだろうって、一実(かずみ)が強引に決めちゃって」

「たしかに、愛ちゃんは小柄だから騎手に向いてるかも」

「違うの。聞いて。あたしと一実ってね、背は十センチ違うけど、体重はほとんど同じなんだよ。一実もそのこと知ってるのに、自分が騎手になるの嫌だからって押しつけてきたの。いくら実行委員だからって、これじゃ職権濫用じゃん?」

「愛ちゃんと同じ体重か。痩せてるんだね、速水さん」

 軽はずみにそう言ってしまった直後、自分の失言に気づいた。

「いや、痩せてるっていうか、むしろちょっと痩せすぎだよね。愛ちゃんくらいがちょうどいいよ」

「いいよマー君、無理しなくて。どうせあたしはデブだからさあ」

「いや……」

 まずい。取り返しのつかない失言をしてしまった。何か、何か別の話題はないか?

「あの、昨日は送別会があったんだよね? どうだった?」

「送別会っていうか、先輩の友だちも来ててね、なんか、ただの大学生の合コンだったよ」

「合コン?」

 その下品な言葉は、「合同」と“company”とが合わさった妙な複合語の短縮形だ。まともな日本語に直せば「合同交際」とでもなるのだろうが、要は盛り狂った男女が性交の相手を物色するために開く宴会だろう。そんないかがわしい宴に、この無防備な愛ちゃんが参加したというのか。全身が熱を帯び、毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出してくる感覚を覚えた。

「大丈夫だった? 変なことされなかった?」

 思わずそう問いたててしまった。愛ちゃんはにこりと笑って答えた。

「大丈夫。楽しかったよ」

「楽しかった」とは一体、どういう意味だろう。まさか学生の本分たる学業を怠り、合コンなどに現(うつつ)を抜かすような知性の欠片もない、性欲だけは旺盛な大学生に言い寄られたのか。そして、もしやそいつの部屋に連れこまれてしまったのではないだろうか。いやいや、愛ちゃんに限ってそんなアバズレのようなことはしないはずだが、しかし……。

「そろそろあたしの番だ」

 そう言うと愛ちゃんは立ち上がってTシャツを脱ぎ、バスタオルと一緒にそれを手すりにかけた。濃紺の競泳水着が白い肌に吸いつき、こんもりとふくらんだ重々しい乳房が美しい曲線を描いている。うなじから背中にかけて点在するほくろを数え、量感溢れる下半身へと視線を移すと、思わず喉が鳴った。水着に収まりきらないむちむちとしたお尻の肉が、歩く度にぷるぷると揺れている。

 下半身の異変に気づき、僕はその場に座り込んだ。そして、いわゆる体育座りの姿勢で股間の沈静化を図ることにした。

 あれほど嫌がっていた騎馬戦で、愛ちゃんは意外にも奮戦している。彼女の肢体を観賞していると、ますます危機感が募っていく。これほどグラマラスな美少女に、他の男が何もしないはずはない。このまま僕が友人としての関係に甘んじていれば、彼女は早晩、他の男のものになってしまうだろう。そうなってしまう前に、何とか手を打たなければ。

 女同士の熱戦を制し、奪い取った水泳帽を高らかと掲げる愛ちゃん。彼女を手に入れるのは、この俺だ。股間が目立たぬよう膝の間に顎を埋めながら、僕は静かに決意を固めた。


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