鱗十文庫のnote

主に歴史系の随筆を書きます。 本名は省略しますが、字は彩龍、号は竹陰、無憂庵、文史斎、…

鱗十文庫のnote

主に歴史系の随筆を書きます。 本名は省略しますが、字は彩龍、号は竹陰、無憂庵、文史斎、三多堂、湖北散人など。 これまで使ってきたペンネームは、T.N生、九笹彩龍、角田文彦、香青玉、川村薫、南部龍三などなど。 よろしくせぎゅ!

最近の記事

#76 常光寺掃苔録

 今夏も実家、青森へ帰省し、菩提寺である上北郡野辺地町の日照山常光寺(曹洞宗)で墓参を果たすことができた。常光寺は寺町に所在するが、一帯は野辺地町の中心部にあたり、野辺地町役場やかつて行在所であった野村治三郎邸も隣接している。  常光寺は寛永9年(1632)、野辺地城代であった日戸(ひのと)内膳行秀が同じく城代であった父の菩提を弔うために開基となり建立したと伝えられている。野辺地城は戦国時代まで北郡に勢力を誇った七戸氏(南部支族)の庶流、野辺地氏の居城であったが、戦国末期の九

    • #75 東三条院詮子の生涯

       前々回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、迫真の最期を迎えた東三条院詮子は、日本史上初の女院としてその名を歴史に刻んでいる。その生涯は、父藤原兼家の栄達と密接に関わっており、その死後は、兄藤原道隆、弟藤原道長の栄達にも大きな影響を及ぼしたが、何より権勢の根源となったのは、第66代一条天皇の生母(国母)としての立場にあった。  詮子は応和2年(962)、藤原兼家の次女(母は時姫)として生まれ、天元元年(978)に第64代円融天皇に入内し、女御となる。天元3年(980)には東三条

      • #74 一条院皇后宮定子の霊屋

         前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、悲しくも退場した一条天皇皇后定子は、悲運の中宮・皇后として多くの言葉で語られている。その最たるものは清少納言の『枕草子』であろうが、ここでは葬送について書きたい。  一条天皇の寵愛を一身に受けながら不遇でもあった定子は、次女である媄子内親王を出産後、後産が下りずに長保2年(1000)12月16日、数え年25歳で崩御する。詳細は不明ながら12月23日に六波羅蜜寺に遺体を仮安置し、12月27日に鳥辺野の南の方に霊屋(タマドノ)を造り、葬った

        • #73 『馬上武芸篇』を読む

           金子有鄰著『日本の伝統馬術 馬上武芸篇』(日貿出版社)は、日本馬術、武芸に関する名著としてその筋の方々には広く知られている。著者は弓馬軍礼故実司家芸州武田流を継承する古式馬術の専門家であり、家伝として伝えられていた馬上武芸の秘伝、神髄を公刊したとまでいわれている。武士道は「弓馬の道」ともいうが、馬上における武術、すなわち馬上武芸に武士道、日本武道の本質を見出そうとする。  本書の内容で最も心惹かれたのが、悍馬への頌徳である。悍馬とは駻馬・癇馬・汗馬とも書かれるが、気性が荒く

        #76 常光寺掃苔録

          #72 角川源義の俳句

           最近、角川春樹著『角川源義の百句』(ふらんす堂)を読んでいる。角川源義は言わずと知れた角川書店(現株式会社KADOKAWA)の創業者にして、本書の著者である角川春樹の実父でもある。ここでは角川一族の話はしないが、文学博士の源義は国文学者でもあり、俳人としても著名である。筆者は特に、源義の俳句には心打たれるものがある。  筆者が角川源義の名を知ったのは、本書にも収録されている一句「白桃を剥くねむごろに今日終わる」の添えられた俳画を考古学の師匠の自宅で見かけたことが契機であり、

          #72 角川源義の俳句

          #71 耳皿考

           前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、まひろ(紫式部)が食事の際に箸置きとしての耳皿(みみざら)を使っているシーンが映った。このドラマは本当に一瞬だけ考古ファンをキュンとさせる演出をしてくるわけであるが、耳皿とは口縁を内側に折り曲げた小皿のことであり、曲がった形が人の耳に似ているためそう呼ばれたらしい。箸置き・匙置きとして使われており、転げ落ちないように口縁を曲げたのである。ちなみに、匙とは現代のスプーンのような形状の食器であり、ドラマの中ではまひろや藤原宣孝が越前のウニを

          #70 裳着と加冠

           前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、藤原道長の長女、彰子の「裳着の儀」が描かれた。「裳着の儀」とは、貴人の女子の成人式であり、男子であれば「加冠の儀」となる。元服とも言うが、元(首=頭)、服(着用する)であるから、加冠と同じ意味である。男女ともに12歳~16歳頃に行うものとされ、かかる儀式を経て大人の仲間入りをするわけである。これ以降は結婚することができる。ドラマの中で彰子の「裳着の儀」を盛大に執り行ったのは、一条天皇への入内を大々的に披露するためである。  女子の裳着(

          #70 裳着と加冠

          #69 天の川

           今日は、七夕である。七夕の話題も限りなくあるのだが、今回は天の川の話を書いておきたい。筆者の記憶の中では、中国西域、シルクロードの砂漠で見上げた天の川と、小学校低学年の頃に青森の実家の前で見上げた天の川が鮮明に残っている。特に、何度目かの中国旅行で訪れた新疆ウイグル自治区キジル千仏洞の近くで見上げた夜空の美しさは生涯忘れえないであろう。クチャ県に所在するキジル千仏洞は、西域を代表する石窟寺院であり、極彩色の仏教壁画が残されていることで著名である。1998年にも一度訪れていた

          #68 田中智学のこと

           過日、鎌倉を歩いた際、北鎌倉から亀ヶ谷の切通しを抜けて、亀ヶ谷坂の急坂を下っていたところ、扇ヶ谷へ入る坂の途中に「田中智学師子王文庫趾」と刻まれた石柱が建っていた。師子王文庫は、明治30年(1897)から43年(1910)頃まで当地にあった国性文芸会の施設であり、蔵書や出版などを行っていたものと考えられる。国性文芸会は、田中智学の設立した国柱会の関連団体であり、師子王とは獅子王、すなわちライオンが百獣の王たるごとく、法華経は一切の頂に存すという日蓮宗の教えに基づいている。

          #68 田中智学のこと

          #67 唐堀遺跡の彫刻木柱

           過日、千葉県立中央博物館まで「発掘された日本列島2024」展を見に行った。かかる展覧会は、毎年、「新発見考古速報展」として前年度の特筆すべき発掘調査成果を展示するものであるが、今年は開催30年記念の特別展として「新発見考古速報展」だけでなく、「我がまちが誇る遺跡」、「遺跡から読み解く多様な歴史文化」、「文化的景観20年」も特集展示されていた。さらには、千葉県の地域展として「大多喜・台古墳群の鏡がうつし出す時代」も併設されていた。筆者の目的は展覧会だけでなく、当日のみ開催され

          #67 唐堀遺跡の彫刻木柱

          #66 大塚山安楽寺参詣記

           寒川神社を参拝したついでに、近隣の大塚山利益院安楽寺(高野山真言宗)を参詣した。南東向きの緩斜面(相模川左岸の台地縁辺部)に立地する安楽寺は、古来より寒川神社の別当寺であり、相模国分寺創建よりも古い養老2年(718)開基と伝わる。当初から相模国一之宮たる寒川神社の別当寺として創建されたと考えられている。同じく寒川神社周辺に所在する薬王寺、西善院、神照寺、三大坊、中之坊の5ヶ寺は寒川神社の神宮寺であり、供僧寺でもあった。これら諸寺院はすべて安楽寺の末寺であり、別当寺の伝統が生

          #66 大塚山安楽寺参詣記

          #65 一之宮寒川神社参拝記

           昨日、相模国一之宮たる寒川神社を参拝した。筆者にとっては二度目の参拝であったが、古いお札を納めることもできたし、何より拝殿に入り、ご祈祷を受けることができた。神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する寒川神社は、前述の通り相模国一之宮であり、県内で最も由緒ある神社である。周辺には、宮山、社家など寒川神社に由来する地名が残されている。年間参拝者数は鶴岡八幡宮に及ばないが、昇殿参拝者数は日本一という稀有な神社でもある。また、古代以来の伝統を有する「八方除け」の神社としても知られている。

          #65 一之宮寒川神社参拝記

          #64 長寿寺のヤマユリ

           過日、北鎌倉の宝亀山長寿寺(臨済宗建長寺派)を訪ねた。とは言っても拝観はせず、山門前の山百合(ヤマユリ)を見に行ったのである。今はちょうどヤマユリの季節であるが、ここは隠れた名所として知られている。境内にも咲いているのだが、山門前の石段周辺には多くのヤマユリが咲いており、白い大ぶりの花弁とともに強い芳香を楽しむことができる。  長寿寺は、創建や開基は不明であるが、南北朝時代に鎌倉公方足利基氏が、父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝えられている。境内には尊氏の遺髪を納めたとい

          #64 長寿寺のヤマユリ

          #63 紙の王

           前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で紹介された越前和紙は、江戸時代の文献に「紙の最たるもの」、「紙の王」と書かれるほど上質の和紙として知られていた。すでに平安時代にはその品質の高さは全国に轟いており、公文書などに使用する「奉書紙」や「鳥の子紙」は特に人気が高かったという。ドラマの中でまひろ(紫式部)が絶賛していたが、『源氏物語』の中にも素晴らしい和紙を求める場面が出てくるように、当時の文筆家にとって良質の和紙は高級品でもあったから、喉から手が出るほどに欲しい文物だったのであ

          #62 妙見本宮千葉神社参拝記

           昨日、千葉市中央区院内に鎮座する妙見本宮千葉神社に参拝することができた。ここは千葉県で盛んな妙見信仰の総本山のような神社であるが、明治以前は北斗山金剛授寺尊光院(真言宗)と呼ばれる寺院であった。妙見信仰とは、北斗七星に対する信仰であり、古代オリエント発祥の星辰信仰に基づくものと考えられている。古代以来、神仏習合により北斗七星を神格化した北斗妙見菩薩と北斗妙見尊星王(天之御中主大神)は同じ神仏とされており、特に中世千葉氏の篤い崇敬により房総半島を中心に信仰を集めた。  千葉氏

          #62 妙見本宮千葉神社参拝記

          #61 加曽利貝塚踏査記

           昨日、千葉県千葉市若葉区桜木八丁目に所在する国特別史跡、加曽利貝塚を訪ねた。加曽利貝塚は、我が国で最も有名な縄文時代の貝塚であり、縄文時代を専門とする考古学徒にとっては憧れの場所でもある。直径約140mの北貝塚(縄文時代中期)と長径約190mの馬蹄形を呈する南貝塚(縄文時代後期)を含む約15.1haが特別史跡の範囲となり保存されている。双環状集落とも呼ばれるが、南北貝塚以外にも遺構は発見されており、これまでに多数の住居址や約230体もの人骨が見つかっている。貝塚周辺は住宅街

          #61 加曽利貝塚踏査記