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#74 一条院皇后宮定子の霊屋

 前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、悲しくも退場した一条天皇皇后定子は、悲運の中宮・皇后として多くの言葉で語られている。その最たるものは清少納言の『枕草子』であろうが、ここでは葬送について書きたい。
 一条天皇の寵愛を一身に受けながら不遇でもあった定子は、次女である媄子内親王を出産後、後産が下りずに長保2年(1000)12月16日、数え年25歳で崩御する。詳細は不明ながら12月23日に六波羅蜜寺に遺体を仮安置し、12月27日に鳥辺野の南の方に霊屋(タマドノ)を造り、葬ったという。定子の葬送を仕切ったのはかつての中宮大夫平惟仲であったが、『栄花物語』によれば、辞世の歌の一つ「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ」を遺言、すなわち定子の遺志と理解し、当時貴人の葬送では一般的であった火葬ではなく土葬にしたとされている。煙にも雲にもならぬ身とは、火葬されないことを指している。
 なお、霊屋とは、10世紀末~11世紀初頭の約30年間を中心に歴史上に登場する葬送施設であり、霊殿・玉殿・魂殿・玉屋など様々に書かれるがすべて「タマドノ」と読まれたらしい。おおむね寺院の境内や敷地内外に造営されるが、仏堂ではなく葬送専用の施設であり、仏堂に遺体を葬る墳墓堂が登場するのは100年以上先の話である。定子の霊屋は築土を巡らせたというから、築地塀で囲った立派な施設であった。黄金造りの御糸毛の御車で運び、棺を御車から下ろして葬ったという。ただし、定子の陵墓である鳥戸野陵は、丘陵上に占地しているから、どこまで御車で運べたかは定かではない。
 基本的に遺体は棺に入れられるが、厳密には土葬でもなく遺体安置のための場所であるから、数日から長いものでは数年後になることはあっても必ず改葬される。改葬時には火葬されることもあるが、遺体が原形を保っているとは限らないうえに、生きた人間が近づける場所ではなかったであろう。古墳時代以来の殯(もがり)の伝統によるものとする見解もある。
 霊屋の被葬者に「光る君へ」の関連人物が多いのも時代の特質を表しており、太皇太后昌子内親王(冷泉天皇中宮)、一条尼上(源倫子母)、源保光娘(藤原行成母)、藤原長家室(藤原行成娘)、三条天皇皇后媙子(藤原済時娘)、藤原長家室(藤原斉信娘)などが著名である。貴人の女性ばかりというのも特徴的であり、性別が関係している可能性も指摘されている。
 本格的な墳墓堂の嚆矢とされる鳥羽天皇中宮待賢門院璋子は、三昧堂(法華堂)下に石櫃を造って土葬されており、墳墓堂の被葬者にも貴人の女性が多い点は古くから注意されてきた。

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