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#63 紙の王

 前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で紹介された越前和紙は、江戸時代の文献に「紙の最たるもの」、「紙の王」と書かれるほど上質の和紙として知られていた。すでに平安時代にはその品質の高さは全国に轟いており、公文書などに使用する「奉書紙」や「鳥の子紙」は特に人気が高かったという。ドラマの中でまひろ(紫式部)が絶賛していたが、『源氏物語』の中にも素晴らしい和紙を求める場面が出てくるように、当時の文筆家にとって良質の和紙は高級品でもあったから、喉から手が出るほどに欲しい文物だったのである。
 越前和紙の淵源はよく分かっていないそうだが、現在の福井県越前市大滝町(旧今立郡今立町)に鎮座する大瀧神社・岡太(おかもと)神社には、紙祖神ともいわれる川上御前が祭られている。川上御前は越前に和紙の製法を伝えたという伝説上の女性であり、第26代継体天皇が即位前(西暦507年以前)に男大迹王として越前国を治めていた頃に、岡太川の上流に現れ、村人たちに紙漉きを教えたとされる。川上御前は岡太神社の祭神となっているが、筆者が注目するのは和紙を伝えたのが女神、すなわち女性であったという点にあり、当時、紙漉きは女性の仕事だったのかもしれない。正倉院文書には、我が国に中国・朝鮮半島から紙が伝わった4~5世紀代には、すでに越前和紙が漉かれていたとの記事があり、かかる川上御前の伝説は、渡来人の窓口でもあった越前に紙が伝来したという歴史を示唆している可能性も考えられよう。
 越前和紙は、古代末から中世に至り、紙の需要が増えてくるとますます珍重され、当地の支配者層は盛んに保護し、生産を奨励した。江戸時代には福井藩が専売品としている。福井藩の藩札にも使用された他、明治初期の紙幣の元となる「太政官金札用紙」としても採用されている。いずれも丈夫で経年劣化せず、見た目もよいという越前和紙の特徴が生かされたものであろう。その評判を聞きつけたピカソが、密かに自身の作品を描く紙として使っていたエピソードも著名である。
 文は、史の器であるという。では、文の器は何であろうか。紫式部にとって、文の器こそ紙であり、ピカソにとっては絵の器だったのではなかろうか。文人墨客が良質の紙を求めるのは、単なる虚栄心ばかりではない。

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