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#68 田中智学のこと

 過日、鎌倉を歩いた際、北鎌倉から亀ヶ谷の切通しを抜けて、亀ヶ谷坂の急坂を下っていたところ、扇ヶ谷へ入る坂の途中に「田中智学師子王文庫趾」と刻まれた石柱が建っていた。師子王文庫は、明治30年(1897)から43年(1910)頃まで当地にあった国性文芸会の施設であり、蔵書や出版などを行っていたものと考えられる。国性文芸会は、田中智学の設立した国柱会の関連団体であり、師子王とは獅子王、すなわちライオンが百獣の王たるごとく、法華経は一切の頂に存すという日蓮宗の教えに基づいている。
 田中智学は、近代日蓮主義の頭目のような思想家であり、右翼団体の思想的背景ともなっているのは事実であるが、実際には在家日蓮信者に終始しており、決して国粋主義者ではない。国柱会の活動や彼の造語した「八紘一宇」という文言が勝手に解釈され、流布されているが、世界民族とその一員たる我が国国民の平和と幸福を追求したいという切なる願いがその根源にある。戦争批判と死刑廃止論はその一端を示している。
 智学は本名を巴之助といい、文久元年(1861)、東京日本橋の医師多田玄龍の三男として生まれた。玄龍は日蓮宗の在家信者団体である江戸寿講の主要メンバーであり、智学と日蓮宗の結び付きは生まれながらにしてであった。10歳で宗門に入り、智学と称し、田中姓に改姓している。日蓮宗小教院(立正大学の前身)に在院中に宗門の教えに疑問を抱き、還俗して在家信者のための宗門改革を目指して、明治13年(1880)、横浜に蓮華会を設立した。明治17年(1884)には東京へ移転して立正安国会と改称する。大正3年(1914)には関係諸団体を統合して国柱会を設立した。いわゆる日蓮主義運動を展開し、多くの政治家・軍人・芸術家らの支持を得た。国柱会の会員には、近衛篤麿(近衛文麿の父)、宮沢賢治、石原莞爾、高山樗牛、姉崎正治、武見太郎などがいる。そもそも「日蓮主義」という言葉も智学による造語であり、宗祖日蓮がたび重なる弾圧にも負けず、常に社会的実践を続けていたことに倣い、日蓮の思想を信仰上の問題のみに限定することなく、政治・経済・文化・芸術などの幅広い社会的な領域へ押し広げようとする運動であった。これは社会生活に密着した在家主義を基盤としている。前述の師子王文庫は、文芸分野における実践の一端である。大正12年(1923)には、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的に政治団体、立憲養正会を創設し、初代総裁となっている。戦後も創価学会に代表される日蓮宗系の宗教団体が政治に深く関わろうとする傾向は、かかる日蓮主義思想が根底にある。
 なお、「八紘一宇」は神武天皇の言葉とされる「八紘為宇」からの造語であるが、「世界を日本を中心とした一つ屋根の下に統一する」という意味に曲解している言説も多い。本来の意味は、世界諸民族はその特色のままに互いを尊重して、一つ屋根の下に暮らす同胞として世界平和を達成するという趣旨であり、戦争拡大のお題目として利用されたのは智学にとっても本意ではなかったであろう。

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