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#65 一之宮寒川神社参拝記

 昨日、相模国一之宮たる寒川神社を参拝した。筆者にとっては二度目の参拝であったが、古いお札を納めることもできたし、何より拝殿に入り、ご祈祷を受けることができた。神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する寒川神社は、前述の通り相模国一之宮であり、県内で最も由緒ある神社である。周辺には、宮山、社家など寒川神社に由来する地名が残されている。年間参拝者数は鶴岡八幡宮に及ばないが、昇殿参拝者数は日本一という稀有な神社でもある。また、古代以来の伝統を有する「八方除け」の神社としても知られている。
 今回は、ご祈祷を受けた者のみが入れるという本殿裏手の神嶽山神苑を歩くことができた。ここは本来、禁足地であったが、近年庭園として整備され公開されている。本殿の真後ろに「難波の小池」と呼ばれる霊泉があり、寒川神社創建に関わると考えられている。すなわち、かかる泉こそが本来のご神体であり、霊泉の湧く霊地なればこそ神社が建てられたのであろう。さらに後ろには小山(神嶽山)があり、裏参拝所となっているが、泉と小山は現在も立入禁止であり、禁足地の伝統は残っているようだ。
 相模国は、もともと相武(さがむ)国と師長(しなが)国が合併した国であり、寒川神社は相武国の一之宮であった。師長国の一之宮であった川勾神社は、相模国二之宮となった。どちらを相模国一之宮とするかについては争いもあったようだが、当時の国府が相武国側に位置したことにより、寒川神社が一之宮とされたらしい。大磯町六所神社で現在も続く国府祭(こうのまち)という祭事では、相模国の主要5社(寒川神社・川勾神社・比々多神社・前鳥神社・平塚八幡宮)の神々が集い、寒川神社と川勾神社が席次を争う「座問答」という寸劇のような神事が伝えられている。
 近隣には相武国造の墓と伝わる大神塚古墳(4~5世紀代の前方後円墳)がある。寒川神社の創建年は不明であるが、5世紀代の第21代雄略天皇の御世に朝廷より幣帛の奉勅があったとの伝承があり、遅くとも平安時代の延暦7年(788)には幣帛・勅祭が行われている。『続日本後紀』によれば、承和13年(846)に従五位下の神階が授与されており、延喜16年(916)には正四位に上っている。延長5年(927)の『延喜式神名帳』では、相模国唯一の名神大社に列格されており、現在でも寒川大明神と号する所以となっている。祭神は、寒川比古命 (さむかわひこのみこと)、寒川比女命 (さむかわひめのみこと)の男女神二柱であり、当社のみの産土神である。源頼朝や執権北条氏、鎌倉公方足利氏、後北条氏、徳川将軍家など為政者たちの篤い崇敬を集めており、現在でも参拝者が絶えることはない。

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