科学教育と科学コミュニケーションの違い #3 マーケティングと広報
このnoteでは「科学教育と科学コミュニケーションの違い」について、方向性と文脈という観点からこれまで私が考えてきたことを整理してきました。
今回は、科学教育の理念とは全く異なるところから科学コミュニケーションを捉えてみます。その一つが今回紹介する「マーケティングと広報」という観点です。
マーケティングと広報が科学コミュニケーション?
まず素朴な疑問として、マーケティングや広報が科学コミュニケーションとなりうるかという点について触れておきます。
結論から言うと、なります。
ただし、科学教育と科学コミュニケーションを明確に区別していないと、理解できる/できない以前に受け入れ難いかもしれない、という点は先に述べておきます。
マーケティングとは、ここでは「顧客ニーズや顧客満足を中心に買ってもらう仕組みを構築すること」とします。基本的には、1)分析、2)立案、3)展開の3つのフェーズがあり、1)では環境分析、マーケティング課題の特定、2)セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング、そして最後の3)展開ではマーケティングミックス、そして初めて商品やサービスを販売する計画をつくる、という流れがあります。実際には紆余曲折あることが普通ですが、これが一般的な流れです。
このうち、マーケティングに係る広報戦略はマーケティングミックスの4P(Product, Price, Place, Promotion)の最後、プロモーションに大き関わってきます。商品やサービスの価値を正しく伝えるため、誰に、いつ、どのようなタイミングで、どのようなメディアを使って情報を送り、顧客の意思決定につなげるかが重要です。
当たり前なことですが、「うちの商品は素晴らしいよ!素晴らしいよ!」と連呼したところで、興味のない人には認知すらされません。意思決定プロセスに関与するには、そのためのコミュニケーションの戦略と戦術が必要です。
なお、プロモーションは広報の目的の一つに過ぎませんが、様々なメディアを用いて情報を届けるという点は基本的に同じなので、ここでは便宜的にマーケティングとセットで捉えます。
以上では、商品やサービスという一般的な例で述べましたが、その言葉を「科学」に置き換えても必要な事柄は大きく変わりません。
科学にリテラシーがある人が「科学教育は大事だ!リテラシーは大事だ!」と唱えたり、デマが流れたからといって「科学教育の敗北だ!」といっても、大多数の人々の意思決定は変化しません。科学教育が大事だと言うことを否定する人はほとんどいません。しかし、科学が好きな人と同等のモチベーションでみんなに学べというのは無理な話なのです。科学が好きだということ自体が一つの能力だとすら言えます。
正論は正しいが正論をぶつけることが正しいとは限らないという典型的な例でしょう。
ではどうやったら、科学や技術を学んだり、科学や技術を使ったり考えたりできるでしょうか。その答えを出すためには、マーケティングや広報のマインドセットが有用になります。
教育とマーケティングは立ち位置が全く違う
「#1 方向性」で詳しく述べましたが、科学教育はそれ自体が「目的」であるのに対し、科学コミュニケーションは「手段」である、というのが私の認識です。マーケティングや広報もまた手段であり、それ自体が目的になることはあり得ません。
この違いは非常に重要です。なぜなら、教育とマーケティングは人間の捉えが全く違うからです。
教育にしろ、マーケティングにしろ、人間をより良い方向に行動を仕向けるという点では同じですが、誰にとって「より良い」かが全く違います。
言うまでもなく、教育のより良さとは、少なくとも日本国憲法下においては、その人本人から見た良さの話です。
「日本国憲法下において」と敢えて付け加えたのは、歴史的に見れば教育とは必ずしも本人にとって良いことばかりでもないからです。たとえば政治から見れば教育は社会システムという要素もあります。戦争に動員するのも、公共の福祉を守るのも、社会システムの中に国民を位置づけなければそもそも成立しません。
話を戻して、マーケティングはどうでしょう。誰にとって「より良い」のでしょうか?
これは一概には言えません。顧客だけでなく、そこに関わるステークホルダー全員がハッピーになれるのが最も理想的でしょうが、ステークホルダーがどこまでの範囲を示すかは文脈によって異なります。ただ顧客の意思決定にあの手この手を使って認知と行動を促すという点は、知識技能の習得や思考力の育成といった自律的なスキル獲得を目指す教育とは決定的に違う発想です。この場合、マーケティングの手法を用いて誰かを科学の世界に引き寄せたとしても、マーケティングの手法そのものはその人の学びに関与しません。
しかし、それでも科学や技術とその人は接点を持ちます。そこにゴールを置くならば、それも科学コミュニケーションだと言えます。もし接点を持った上で学びも必要であれば、別途コンテンツや活動のデザインによって自律的なスキルの獲得を促す必要が出てきます。
学校の授業にマーケティングは必要ない
私は元・理科教員です。小学校、中学校、高校といろんなところで多くの子どもを前に理科の授業をしてきましたが、学校に勤めている時はマーケティングなんて考えたこともありませんでした。私立の場合は生徒募集というなのマーケティングや広報はありますが、授業の中でそれらは必要ありませんでした。
なぜなら、授業を受ける人(顧客)はすでに目の前にいるからです。
「#2 文脈」で「フォーマルな教育」という話をしました。学校とは、とてもよくできたシステムだと、学校の外に出た後私は痛感しました。
「学校は学ぶ場所だ」とみんな知っているんです。
学習意欲に個人差はありますが、学ばないという行為に後ろめたさを感じない子どもは未だかつて見たことがありません。不登校の子どもも、授業をエスケープする子どもも、発達障害の子どもも、例外なくです。
これは実はすごいことです。
学校という環境そのものが学びのシンボルとして強力に作用している証拠です。逆に作用しなくなったらもうシステムとして寿命でしょうし、未来永劫続くとは限らないでしょうが、まだもうしばらくは使えるでしょう。
つまり、学校という環境下では適切な意思決定を促す必要なんてなかったのです。子供に寄り添いこそすれど、その場での「適切な意思決定」は誰の目からも明らかで、それをいちいち疑う必要はありません。
学校の外はそういう世界ではありません。良くも悪くももっと自由です。その中で適切な意思決定や行動を促すためには、コンテンツの力だけでは不足する場面は多々存在します。
「生涯学習が進んでいないからじゃないか?」という考察ももちろんできますが、それでは最初も述べたとおり、正論を振り回すだけです。正論ではなく戦略でいかに人を望む方向に促すかが、マーケティングや広報からみた科学コミュニケーションの力の見せ所と言えるでしょう。
メディアコミュニケーションはもっと奥が深い
今回は主にマーケティングという観点から、科学教育と科学コミュニケーションについて整理しました。といっても、具体的な手法や広報の話はほとんど出すことができませんでした。
その点については、またいずれ整理したいと思います。お楽しみに。
最後まで読んでくださってありがとうございます!