科学教育と科学コミュニケーションの違い #1 方向性

これまで考えてきたことを少し言葉で整理してみようと思います。今回は、科学教育と科学コミュニケーションの違いについてです。

前提として、この違いは大多数の人にとってはどうでも良い話だと私は認識しています。多かれ少なかれ誰かがこのどちらかに出会う機会があったとして、それがどちらかであるかは重要ではありません。これはあくまで出会いをつくる側の都合の問題です。

しかし、科学の出会いをつくる人間が勘違いをしていると、伝えたいものが伝わらず、浅い学びしか提供しないといったことは起こり得るでしょう。まず根本的なこととして、科学教育と科学コミュニケーションは方向性が違うからです。

方向性の違いから理解する

科学教育と科学コミュニケーションの大きな違いの1つは、方向性です。

科学教育とはそれ自体が「目的」です。

後ろの語である「教育」とは「他人に対して意図的な働きかけを行うことで、その人を望ましい方向へ変化させること」を意味します。望ましい方向というのは、例えば科学知識の習得(知識が分かる)、科学的思考の向上(使う・考える)、科学的営みに対する好意(好きになる)、科学的営みに参加する(探究する)などを挙げられるでしょう。

それに対し、科学コミュニケーションは「手段」です。

ここでいうコミュニケーションのうち、最も主となるのは自己と他者とによる言葉のやりとり、対話です。ただしこの対話は必ずしも面と向かった状況だけを指すわけではなく、環境を通しての間接的な対話も含まれます。例えばワークショップという活動を通しての対話、展示など道具を通しての対話、映像やニュースサイトなどのメディアを通しての対話なども含まれます。

科学コミュニケーションもまた人の変化をねらってこそいるでしょうが、「望ましさ」とは何かという微妙な問題が残ります。

教育はその性質上、望ましい方向=目標を設定します。目標を設定する以上、評価もすることになるでしょう。でなければ行為の妥当性を検証できません。

では科学コミュニケーションはどうかというと、望ましい方向が必ずしも明文化できるとは限りません。思いもよらぬ方向に他者が変化することもあり得ます。どんな変化が起こるか事前に決められない場合、当然評価もできません。ただしそれは悪いことという意味ではなく、そういう性質のものだと言わざるを得ません。

もしかすると科学教育者の中には、科学コミュニケーションがやりっぱなしで無責任というふうに見えるかもしれません。ただそれは誤解です。方向性が違うのだから、教育の視座から行為を観察すること自体がそもそも誤っているのです。

成果の違いから理解する

ただし、科学コミュニケーションにも成果は求められます。成果を示すことは行為を対外的に説明するためには絶対に必要です。でなければ持続的な活動は難しいでしょう。

科学コミュニケーションの成果は、対話した他者の成長といった曖昧なものよりも、コミュニケーションによって創造された成果物という具体物が評価の対象となりうるでしょう。これは状況によって多様なパターンがありますが、一例を挙げるなら、一般市民の声や意見の収集物など、対話によって一緒に作ったものだと一般的にはわかりやすい。「共創」したものだと分かるものが良いでしょう。

ただし、なぜ共創が必要なのか、生まれ出た具体物を何に役立たせるのかは、事前に念入りな検討が必要です。

また、共創物は一発モノだけでなく、対話そのものが誰でも繰り返し可能であるという再現性が必要な場合もあるでしょう。そういった場合には成果物だけでなくその生まれでた過程、プロセスの評価が当然必要になっていきます。プロセスの評価はむしろ教育評価の手法を援用した方が合理的かもしれません。

科学教育の成果物とは、成長したその人そのものです。人の成長というのは極めて長いスパンの事象ではあるものの、それなりに歴史のある複数の教育評価の手法によって、その人が望ましい方向に変化したのかを見ることは可能です。質的な評価だけでなく、心理統計を使って量的に評価することも可能です。

重要なのは、目的と評価方法がブレていないことです。しかし「望ましい方向」とは何のことか具体的に決めておかないと評価はできませんし、これには高度な専門性を要求されます。私の主観ですが、科学教育実践の中で、目的と評価が一体化していない例は決して少なくありません。

科学教育と科学コミュニケーションが両立するパターン

最後に科学教育と科学コミュニケーションが両立するパターンがあるかどうかについて述べましょう。

結論から言えば、当然あるでしょう。

教育の文脈で参加者に何らかの明確な望ましい状態が決まっている。そして、その状態に達するための手段として、協調学習が必要だとします。協調学習は対話を必要としますから、その学習の中で行われる対話は科学コミュニケーションとなり得る可能性があります。しかし、協調学習=科学コミュニケーションではありません。この違いは少しややこしいので、別の機会に書くことにします。

私のこれまでの経験では、学校で理科を教えている先生が学校の外で実験教室などのイベントを行っているとき、その行為を自分で科学コミュニケーションと呼んでいることがあります。

内容にもよりますが、私個人は上記のようなパターンの場合は科学教育でも科学コミュニケーションでもない可能性をまず考えます。

校外の実験教室の多くは「科学を好きになってもらう」「科学に興味を持ってもらう」ことを謳っているものがあり、参加する子どもや保護者もそれを望んでいるので、需要と供給は成立しています。ただしこの場合、科学を好きになったのか、実験そのものが好きになったのかがそもそも区別できないので評価できません。子供との会話は当然あるでしょうが、会話がイコール対話になるわけでもありません。

ここで私が言いたいのは、科学教育にしろ科学コミュニケーションにしろ、一つひとつの行為があらかじめ定義を決めた上で、目的に応じた環境やゴールを設定できていることが信頼性につながるということです。

信頼性がなければ、ただの独りよがり。少々キツい言葉かもしれませんが、人を望ましい方向に導くということは、一般的にその影響力を考えれば当然責任を持つ覚悟は必要でしょう。

また、先ほどの例の場合は科学教育と科学コミュニケーションの違いを考える別の論点も考慮する必要があります。

それは、フォーマルとノンフォーマルの違いです。

学校の授業で成功する教育活動は、果たして学校の外に持ち出した時も同様な効果を発揮するでしょうか? この問題は特に学校の先生はよくよく考察してみる価値があるでしょう。

この話は、また続きに考えてみましょう。


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