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科学教育と科学コミュニケーションの違い #2 文脈

同タイトルで、前回は方向性の違いについて書きました。

その中で1番最後に次のようなことを書きました。

科学教育と科学コミュニケーションの違いを考える別の論点も考慮する必要があります。それは、フォーマルとノンフォーマルの違いです。

今回はその続き。フォーマルとノンファーマルに関係する「文脈」の違いについて整理します

フォーマルとノンフォーマルの違い

教育学の世界では、教育環境の違いから「フォーマルな教育」「ノンフォーマルな教育」「インフォーマルな教育」という3つの概念を用いることがあります。

「フォーマルな教育」とは「公教育」のこと。日本に限定していえば、学校教育法第1条に定められた学校(通称「一条校」)で行われる教育のことを指します。つまり「学校教育」です。これに対し、私塾や予備校、各種セミナーのように公教育以外で行われる教育(私教育や社会教育など)を「ノンフォーマルな教育」と呼びます

さらにその2つにも当てはまらない教育は「インフォーマルな教育」と呼びます。3つめはピンと来ない方もいるかもしれませんが、こと学習を考える上では外せない概念です。

私たちは“学校”と呼ばれる場所以外でも常にさまざまなことを学習しています。例えば、箸の持ち方、LINEの使い方、冠婚葬祭など文化的なものまで。学校で教わらないけど知っていることはいっぱいあるはず。無論、その中には科学者共同体の中での常識とは異なる知識もあるでしょう。

これらは本人の自覚/無自覚にかかわらず、学習の場に持ち込まれています。これが一人ひとりの持つ文脈の一部であり、良くも悪くも学習に大きな影響を与えるため「インフォーマルな教育」という概念が用いられます。これらは紛れもなく、科学教育のシチュエーションでも、科学コミュニケーションのシチュエーションでも影響してきます。

文脈に対するその人の認識が活動に影響をもたらす

ここで少し考えてみましょう。科学教育と科学コミュニケーション、これらはフォーマルか、それともノンフォーマル、どちらでしょうか?

科学教育=学校教育(公教育)、科学コミュニケーション=ノンフォーマル、というアイデアが頭に浮かぶ方もいるかもしれません。

ただ、現実にはそんなに簡単に分けられません。

例えば学校の理科や数学などの授業は、学校教育の中で行われる科学教育です。でも休日科学館に行くのは、たとえ学校で先生に行けと勧められたとしても、実際に行くかどうかの選択は自由なわけですから公教育ではありません。社会教育です。

では、ノンフォーマルだからといって科学館で科学コミュニケーションできるかというと、必ずしもそうではありません。職員の方が丁寧に展示を解説してくれてウンウン頷きながら聞くだけなら講義の傾聴と変わりません。逆に学校というフォーマルな環境下で受ける授業で、対話の手法を用いて答えのはっきりしない問題を考える場があったら、それは学校教育の中で行われる科学コミュニケーションとなりうるはずです。

前回私が整理したように、科学教育を「目的」、科学コミュニケーションを「手段」と定義するなら、どこでやるかは問題ではないのです。

ただし、これらはあくまで実施者の目線での話。より重要なのは、活動の場所ではなく、文脈に対する参加者側の認識です

例えば、科学館である実験教室を開催したとしましょう。参加は事前申込制。参加した子どもが科学館の職員とやりとりを繰り返しているうちに、職員のことを「先生」と呼ぶようになっていました。さて、この状況は参加者にとって科学教育か、科学コミュニケーションか、どちらでしょうか。

参加した子どもは学校教育の場である「教室」の文脈とその場の状況を照合し、関連づけて捉えている可能性がとても高いと言えるでしょう。すると、参加者と職員の関係も子弟に近い関係性に、その子の中では近づいていると推察されます。

子弟関係ならば対等なコミュニケーションでない。「教室」と名がつくから、じゃあこれは科学教育だ、と言えるかというと、そうとも言えません。

「実験教室」という名は集客上ユーザーにイメージの湧きやすい言葉を選んでいるということもあり得ます。内容が必ずしも参加者の期待通りとは限りません。実施者にしてみれば、良い意味で期待を裏切り満足して帰ってもらっても一行に構いません。

このような場合「先生」と呼ばれた側はどのように対応するのが正しいのでしょうか。きっと正解はありません。人によっては「先生じゃないよ〜」と優しく訂正してもいいかもしれません。私の場合は呼び方なんて蔑称でなければ基本的にその人の自由だと思っているので、特に指摘せず放っておくかもしれません。私は教師として学校で仕事した経験もあるので、文脈を形作っている要素がおおよそイメージできます。参加者の中で学校教育の文脈に近い状況が生まれつつあることが察知できるなら、むしろそれを利用することを考えます。教室を運営する中でその関係性をより深めながら対話できれば、それは科学コミュニケーションになり得るでしょう。

科学コミュニケーションを「手段」と捉えるのであれば、その場の人間の関係性が察知できれば、それに合わせて対話することは可能です。

関係性の構築が文脈の認識を左右する

逆に関係性の構築が非常に難しい場合もあります。

同じく科学館の実験教室を想定します。今度はとある学校の団体が引率教員を含めクラス全員で参加したとしましょう。このような状況の場合、先述したようなシチュエーションは高学年になるほど起こりにくくなります。

このような状況では、環境が科学館であっても参加者にとっては完全にフォーマルな教育、学校教育の文脈下にいます。学校が実施する校外学習なのだから当然です。参加意欲も自ら予約する場合に比べたら相対的に低い状態です。そのうえ、本物の先生が同じ環境の中にいます。このような状況で科学館の職員が参加者に「先生」と呼ばれることがあっても、それはせいぜい「敬称」程度の意味合いしか持ちません。参加者にとって職員の存在は「部外者」以外の何者でもありません。よほど工夫された活動でもしない限り、深い科学コミュニケーションは困難です。逆に知識理解を促すことを目的とした科学教育であれば、普段の生活環境とは異なる科学館という特別な環境の影響もあって、学校の教室よりも効果的に実施できる可能性が高いかもしれません。

もし学校と科学館が深く連携し、時間をかけて定期的に複数回実施できたとしたら、状況における人間の関係性は変えられるでしょう。ただ、それだけのリソースを用意することは容易ではないのが現実です。

容易には変えられない、その人の“学習観”

以上までは、周囲の環境と人間の関係性という側面から参加者の文脈認識を整理しました。

ただし、文脈というのはその人のこれまでの人生の中で構成されています。環境や関係性のように場や活動のデザインで比較的変えられる要素もあれば、かなり時間をかけないと容易には変わらない要素というのも存在します。後者のうち、特に要注意な要素はその人の「学習観」です。これは環境や人間関係よりも厄介な、根の深いものだと私は感じています。

ここでいう「学習観」とは「学びとはこういうものだ」とその人がイメージしているものと、とりあえず定義しておきます。

例えば次のような状況を想定してみましょう。あるイベントで地球温暖化防止に関するパネルディスカッションがオープンな場で行われます。参加者はパネラーと質問を投げかけたり対話したりすることが可能です。周囲は環境意識の高い方ばかり。地球温暖化防止に1つの答えがあるわけではないのは言うまでもありません。環境も関係性も、科学コミュニケーションの手法がふんだんに使われていて申し分がないとしましょう。

ある参加者はパネラーの発言を黙々とノートに書き写しています。さて、この参加者にとってこれは科学教育か、科学コミュニケーションか、どちらでしょう?

今回の場合、学校は全く関係ないのでノンフォーマルな場です。しかしその人は一言もしゃべっていません。では科学コミュニケーションではない、といえるでしょうか。もしかするとノートに発言を取りながらその人の中では深い思考がめぐっているかもしれません(ただし外部から頭の中を覗くことはできませんが)。

もし自分が実施者だったらどう評価するか悩みどころですが、私なら、その参加者の行為は科学コミュニケーションに含みません。少なくともコミュニケーションとは、思考表現が人と人との間で交わされて初めて意味が生まれるだと思いますので、たとえ参加者その人の中で意味はあっても、対話に参加する意思を全く見せていない以上、活動の意図は伝わっていないと考えるほうが妥当です。しかし、その参加者は自分の状態を「参加した」と認識している可能性は高いかもしれません。わざわざノートを取ったということは、その人にとって新しい知見が見つかったと考えられるからです。そういう意味では、”その参加者の中かでは“科学教育が成立した可能性はあります。彼/彼女にとっては、話を聞きノートを取ることが学ぶという行為であり、その学ぶという行為をすることが教養であるというならば、辻褄は合います。

無論、ノートを取るだけでは学びではないと思っている人からすれば、これはものすごく違和感のある話です。そう、これが「学習観」の違いです。今回の例の場合、主催者の立場からすれば科学教育と科学コミュニケーション、どちらも失敗していると考えることもできてしまうわけです。少なくともその一人に関しては。

ある人が学校教育の中で培ったやや古い”学習観“をそのまま持ち込めば、どんなノンフォーマルな場も、その人の認識の中で目的とは異なる”フォーマルな場“に変化します。今の学校教育はそこまで露骨な教育ばかりしていると私は思いません。固定観念に囚われやすい人というのは老若男女問わずいますし、そのことを否定しても仕方ありません。環境や関係性のデザインよりは難易度が上がりますが、配慮すべき要素になることは間違い無いでしょう。

文脈と認識の理解は主催者の評価設計に影響する

フォーマルな教育の場で科学コミュニケーションと名のつく活動(例えば外部講師による特別教室や企業CSR活動など)をする場合や、集客それ自体も目的に含まれるようなノンフォーマルな場での科学教育活動(科学実験イベント)などは、参加する人の文脈や認識は活動評価に含まれていないことがほとんどです。前者は、実施することそれ自体が目的なので、評価項目は実施回数です。後者は、人集めが目的なので、動員数が重要です。もう少し参加者の反応を知りたければ簡単なアンケートを取りますが、「満足した」「楽しかった」等の言葉を得られれば良いのです。

参加者の満足だけで終わる何らかの科学イベントの怖さはここにあります。これらは体裁上、科学教育あるいは科学コミュニケーションと銘打っていても、本来の意義が失われている可能性があります。そして本来の意義は、先述したような評価項目で測れるものではありません。残念ながら、意義の理解と手法の理解、両方ともなって行われている科学教育や科学コミュニケーションは多くなく、参加者にも誤った認識を植え付けてしまっていることがあると思われます。

評価設計は活動の目的や手段がねらい通りに行えたかどうかを測る上で重要です。評価設計をより良くするということは、基本的に活動の目的や目標を明確することにもつながります。どのように評価するかは活動の形態によって異なりますが、少なくとも活動前あるいは活動開始直後の参加者の文脈認識が、活動後に変化したか、変化したとしたらどのようなプロセスを経て変わっていったのかを見届ける必要があると私は考えます。

科学教育か科学コミュニケーションかという議論は、その評価をしてからようやく本格的に始められるものではないでしょうか。

最後まで読んでくださってありがとうございます!