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【短編小説】パラレルわールド

概要
 著者:宇路野朧
文字数:約一万五千字
アオリ:“変える”オマジナイ
初掲載:魔法のiらんど
 応募:第三回 ボカコレ×魔法のiらんど 小説コンテスト

オープニング

 「ねぇねぇ知ってる!?」
 鼻息荒く、話しかけてきたメガネ。世間一般に言うキモオタだった。気持ち悪い。出っ歯で丸メガネでガリガリって、キモオタのテンプレートみたいなやつだな。
 なーんて感情は顔に出さずに上辺だけの笑顔を見せる。
「何を?」
「異世界へ行ける方法だよ!!」
 ああ。またか。コイツはこればっかり。退屈な話のエンドレス。UFOだのUMAだのオカルトだの。「またオカルト?」だの問おうものなら「オカルトなんかじゃなくて根拠が云々」なんて語り始めるに違いない。高校生にもなって何をしてるんだよ。
「へー異世界?」
 だがコイツはこっちが下手に出れば調子を良くする、単純と言えば聞こえがいいオカルト単細胞。
なんでコイツの隣に僕がいるんだ。
 高校デビューは悪くなかった。ヒエラルキーの上位には立てていたはずだった。だったのに。周りから段々と人が消えていった。中学時代と、全く同じように。中一の時に、一度聞いてみたことがある。「なんで僕を避けるんだ?」。「お前さ。自分の性格、知ってるか?」、冷徹な眼差しと共に、そう言われた。ーー高一の梅雨にはもう既に、「キラキラ」しているグループからは堕ちていた。

「今日の夕飯は?」
「あなたの好きな〜はぁんばぁ〜ぐぅ〜♫」
 この母はオペラが好きすぎて月一で劇場に通うだけあり、家では常にくねくねした伸ばし棒をつけるような喋り方をする。
「わかった」
「20:00ね〜」
「おけ」
 階段を登って自分の部屋に入る。
 ベッドに飛び込み、流れるように枕元に置いてあった漫画を開く。
 退屈だった。この漫画も。何回も読んだ故に、結末もサイドストーリーも全て理解している。

 この世界は、退屈だった。僕が評価されない、この世界は。
 いっそのこと違う世界に飛べたらいいのに。そう思った時に、脳裏に浮かんだのはアイツの顔だった。「異世界に行ける方法だよ!」と喋る金切り声がこだまする。
 気づけば僕はあの退屈な会話を反芻していた。
「白い正方形の紙を用意する。そしてその中に黒いペンで六芒星を描く。その六芒星の真ん中に赤いペンで『飽きた』って書くんだって」
 確かアイツはそう言っていた筈だ。おそらくネットに転がっていた情報なんだろう。現に今検索してみると何件か引っかかった。
 ーー面白い。そう思った。作ったやつはきっとセンスがいいんだろう。六芒星のチョイスは無難だが、その中に書く言葉は今の自分にピッタリだ。
 ノートを机から取り出す。無地の自由帳を。どうせやるなら本格的に、だ。六芒星の六をとって6センチ×6センチにハサミで慎重に切る。黒いボールペンと定規を筆箱から取り出して正方形の中にギチギチに、ビッタリはまるような正確な六芒星を描く。赤いボールペンで真ん中に「飽きた」と、言葉でもつぶやきながら書く。基本的に汚い字を、出来うる限りに丁寧に書く。力を込めすぎて、「た」の最後の一画が滲んでしまった。
 できたその紙を光にかざしてみると、確かに不思議な力が宿っているように見えなくもなかった。これを持って寝れば、異世界へ飛べるらしい。バカバカしいと思いつつも、少しワクワクしている自分に嫌気がさした。
「それで、この方法の信憑性が高い、というかリアルな点が一つあって。それがね、飛ばされる異世界がパラレルワールド・・・・・・・ってとこなんだ。…何言ってるか分かんないと思うんだけど、飛ばされる世界は『魔法! 魔物!!』みたいな世界ファンタジーとかじゃなくて、いつもの、この世界とどこか少し違うだけ・・のパラレルワールドなんだって。例を出すと…、知らないビルが建っている、とかこいつの顔のこんな所にホクロなんてあったっけ、みたいなね、些細な変化しかないんだって」
 そう。些細な変化を僕は求めている。その些細な変化が退屈を壊してくれると思ったからこのバカバカしいおまじないを実行する気になった。
 と言っても紙が完成してしまった今、やることは無くなった。
 明日には退屈は晴れると少し考えるだけで、この世界がより退屈に感じてしまう。

 信じてなんかいやしないが、遠足の前の日のような、小さい時の特権である言葉にできない興奮を感じている。

一話

  アラームが鳴る。ジリリリリリ…。

 目を開けると、いつもと同じ天井が目に入った。ほら見ろ、と昨日の自分をごつく。何も変わってないじゃないか。やっぱりおまじないなんてネット民が吐いた嘘だったんだ。
 はーあ、とため息をついて上半身を起こす。と同時に全身で違和感を感じる。

 まず、気づけばいつもの朝と少しだけ違う匂いが、僕の鼻腔を満たしていた。
 そして毛布の手触り。昨日の夜より少しだけふわふわしている。
 勉強机の位置も違う。ドアから見て奥に置いてあったはずなのに、今は手前に変わっている。

 あれ、そういえばー…。
 紙、どこ行った? 昨夜手元に握りしめて寝たはずの、あの紙が忽然と姿を消していることに今気づく。毛布の中にもベッドの下にも枕の下にも、紙はなかった。「紙を握って寝て、朝起きてその紙が消えてたら成功なんだって」。アイツが昨日そう言っていたことを唐突に思い出す。

 自然と、口元から笑みが溢れる。
 棚からぼた餅。全く期待してなかった。まさか本当に飛んだのか? パラレルワールドに。物は試しとは先人、よく言ったものだ。
 着替えてから一階に降りると、味噌汁の香りが鼻をついた。「あぁ〜、起きた〜のね。時間が〜なかったかぁら白米と味噌ぉ汁だけ〜よ!」。と聞き慣れた声と言ったのは母。その声は全くいつもと同じだった。パラレルワールドに飛んだなんて、まさに飛んだ夢物語か、なんて少し落胆した。が、そんな沈んだ気持ちは一気に吹っ飛んだ。味噌汁の具が違う。匂いも汁の味も何一つ変わらなかったけど、麩ふが入っていた。豆腐ではなかった。「恐怖の味噌汁よぉ〜」と母が言った。少し驚き考えたが、すぐに「今日、麩の味噌汁よぉ〜」であったことに気がつく。
 これはこれで美味かった。

 リュックを背負う、制服のボタンをきちんとしめる。
 「いってきます」「いってらっすぁあーい♪」。ドアを開ける。いつもより少し重かった気がした。

 目に入ってきた青空は、眩しいぐらいの快晴だった。
 呼吸をするのが楽しかった。足を踏み出すのが楽しかった。新しい、この世界と前の世界の違いを見つけるのが楽しかった。

 家を出てすぐの通学路の右手にある家の飼い犬、「ポチ」が柴犬の「タロウ」になっていた。
 コンビニだった場所にラーメン屋が建っていた。
 駅前に知らないビルが建っていた。
 11両編成だったはずの電車が15両になっていた。その電車の1両目に必ず乗るはずのおじさんが、2両目に座っていた。
 「間羽駅」が「真羽駅」に変わっていた。
 近くの女学院の制服が白基調から淡い灰色基調になっていた。
 正門に掲げられた電球にヒビが入っていた。
 下駄箱に靴を入れようとすると、誰のものか分からない靴が既に入っていた。有名なブランドの、黒と青と白の女物のスニーカーだった。

「は…?」
 無意識に、声が出る。俺の下駄箱のはずだ。だがここには知らない靴、これから想像するにおそらく。

「パラレルワールド…『些細な違い』の影響か…」

 いつまでも、(靴から想像するに)女子の下駄箱の前にいてはただの気持ち悪いヤツ。

 自分のクラスに行ったら名簿があるだろ、と思い、腰を上げた。刹那、頭の中にひらめきが走った。

「クラスも違うんじゃ…」

 出席番号が(おそらく)変わっているようだし、なんらおかしくないことではある。
 しかし、それはまずい。断じてまずい。今そんな考えが浮かんだ自分の頭を殴りたかった。が、殴ったところで仮定が変わるわけではない。さらに、それは今までの事実に基づいた、かなり信憑性の高い仮説だった。
 クラスも出席番号もわからないヤツなんて不自然極まりない。どうにかして自分のクラスと出席番号を手に入れないと悪目立ちしてしまう。

 今すぐに頭を抱え込みたいところではあったが、昇降口で頭を抱え込んでいる奴もそれはそれで不自然だ。
 事務室へ行って全校名簿を見るか? いや登校まっしぐらに事務室へ…、はむしろ逆に悪目立ちしてしまうことに気づく。

 思考を繰り返す。しかし最適解は見つからない。

 時間にして一分強が経過した頃だろうか、考え込んでいると、右手にポンと手が置かれる感触があった。

「ハーマベ、私は誰でしょー」

 声質からしてヤジマ コウスケ。クラスの…、前の世界で同じクラスだった、陽キャ。
 自分で言うのも癪だが、昨日までの自分とは縁がなかったようなヤツだ。そいつがどうして…。恐らく「些細な違い」なのだろうが、正直助かった。
 この感じで話しかけてくるのは、多分結構に仲がいい奴に対してだけだ。つまり、この世界において俺とコウスケは親友クラスに仲がいいと言うことが推測できる。加えてこいつはテスト毎に掲示される学年トップ30に載るほどには頭がいい。記憶力もいいと考えていいだろう。ということは、こいつは俺のクラスと出席番号を知っている可能性が高い!

 今この状況における最善策はーー。

「あなたは…ヤジマ コウスケ君です!」
 ーー無難に応えること。それもこいつのキャラに合わせて。

「せいかーい。ピンポンピンポーン!!」

 後ろを振り向くと予想通り、白い歯を見せて笑う八島が立っていた。
 次にクラス・出席番号を聞き出すべきだが、こいつの性格を利用すればそれは至って簡単。

「じゃあお返しにこっちからも問題だしまーす」

 と言うと一瞬だけ戸惑ったような顔を見せたがすぐに笑顔が戻る。
「待ってました」
「私、ハマベ ジョーのクラスと出席番号を答えよ!!」
「2組25番!!」
「ん〜、正解!」
 実際には正解かどうかわからないが、間髪いれずに答えてきたのを見ると相当自信があることが窺える。まず間違いはないだろう。

 心の中のにやつきが顔に出ていないか心配だった。

 キーンコーンカーンコーン。
 放送が、昼休みになったことを告げる。
「ふぅー」
 歴史の教科書類を机の中にしまう。
 顔を上げると俺の机にコウスケが腰掛けていた。興味深そうに眺めているその人差し指の爪先には何があるのだろうか。
 しばらくコウスケの顔を眺めていると、跳ね起きてこちらを見てきた。
「ハマベー、いつもン所で飯食おー」
 おもむろに掲げてきた右手にはしっかりとお弁当箱が握られている。
 いや、それはどうでもいい。問題は…、俺が「いつもの場所」を知らないこと。いや、それは簡単に解決できる。こいつを前にして、着いて行くようにして歩けば大丈夫。
 「おけ、行こうか」。そう言って机の横からお弁当箱を取る。
 あくまで自然に、半歩後ろを歩く。他愛もない会話を途切れさせないよう歩く。
 そうこう歩いていると、裏庭に出る。既に全てのベンチは埋まっていた。人が多い。しかも見るからに陽キャしかいない。
 おそらくココなんだろうな。
 そう思って腰を下ろそうとしたら、まだ。まだコウスケは歩き続けていた。裏庭を突っ切って歩いて行こうとしている。
 と言っても着いていくことしか俺にはできなかった。

 裏庭を出て、一つ角を曲がってドアを開ける。
 非常階段がそこにはあった。古びたサビだらけの階段を踏み締めると、ミシミシと嫌な音がなった。
「ふぅ」
 一階と二階の間の踊り場に腰掛ける。
 目の前には大空が広がっている。しかもこの昼休みの時間帯に陰になり、服越しに感じる冷えた鉄が火照った体に染みる。ビル風が通り抜け、この踊り場は下から見づらい配置になっている。要は完璧である、ということ。
「ーー先客じゃん」
 この余韻に浸っていると、足元から声が聞こえた。
 見下ろしてみると、ドアを開けたその格好で止まっている女子がいた。
 サクラ ミヨ。先端だけ金に染めた髪を、おでこを見せるように後ろに下ろしている。少しつり目なその眼光が鋭くこちらを睨め付けてきている。
 俺の…思い人である。好きになった訳は…知的で優しい一面もあるから。性格がキツいのが薔薇の棘だが、だからこそデレた姿を見たいのもある。
「悪かったな」
 ニヤニヤと笑いながらミヨを見下ろしているコウスケに少しだけ殺意が湧く。嫌な笑いだ。口角は上がっているが目は冷たい。
「最悪」
 そう言って彼女は去っていってしまった。

 白米を口に放り込みながら考える。
 コウスケとミヨ。この二人は仲が良かったはずだ。なのに何故だろうか。先ほどのやりとりを見ると険悪な仲に見える。
 「些細な違い」か。最悪だ。今日こちらに来て初めての接触だったのに。たぶんコウスケイヤなやつと一緒にいるおそらく嫌なやつ、にしか見られてない。まぁ昨日までーー元の世界では無視されていただけマシだろう。
 気づけばお弁当箱の中に米は一粒も残っていなかった。 キーンコーンカーンコーン。
 放送が、昼休みになったことを告げる。
「ふぅー」
 歴史の教科書類を机の中にしまう。
 顔を上げると俺の机にコウスケが腰掛けていた。興味深そうに眺めているその人差し指の爪先には何があるのだろうか。
 しばらくコウスケの顔を眺めていると、跳ね起きてこちらを見てきた。
「ハマベー、いつもン所で飯食おー」
 おもむろに掲げてきた右手にはしっかりとお弁当箱が握られている。
 いや、それはどうでもいい。問題は…、俺が「いつもの場所」を知らないこと。いや、それは簡単に解決できる。こいつを前にして、着いて行くようにして歩けば大丈夫。
 「おけ、行こうか」。そう言って机の横からお弁当箱を取る。
 あくまで自然に、半歩後ろを歩く。他愛もない会話を途切れさせないよう歩く。
 そうこう歩いていると、裏庭に出る。既に全てのベンチは埋まっていた。人が多い。しかも見るからに陽キャしかいない。
 おそらくココなんだろうな。
 そう思って腰を下ろそうとしたら、まだ。まだコウスケは歩き続けていた。裏庭を突っ切って歩いて行こうとしている。
 と言っても着いていくことしか俺にはできなかった。

 裏庭を出て、一つ角を曲がってドアを開ける。
 非常階段がそこにはあった。古びたサビだらけの階段を踏み締めると、ミシミシと嫌な音がなった。
「ふぅ」
 一階と二階の間の踊り場に腰掛ける。
 目の前には大空が広がっている。しかもこの昼休みの時間帯に陰になり、服越しに感じる冷えた鉄が火照った体に染みる。ビル風が通り抜け、この踊り場は下から見づらい配置になっている。要は完璧である、ということ。
「ーー先客じゃん」
 この余韻に浸っていると、足元から声が聞こえた。
 見下ろしてみると、ドアを開けたその格好で止まっている女子がいた。
 サクラ ミヨ。先端だけ金に染めた髪を、おでこを見せるように後ろに下ろしている。少しつり目なその眼光が鋭くこちらを睨め付けてきている。
 俺の…思い人である。好きになった訳は…知的で優しい一面もあるから。性格がキツいのが薔薇の棘だが、だからこそデレた姿を見たいのもある。
「悪かったな」
 ニヤニヤと笑いながらミヨを見下ろしているコウスケに少しだけ殺意が湧く。嫌な笑いだ。口角は上がっているが目は冷たい。
「最悪」
 そう言って彼女は去っていってしまった。

 白米を口に放り込みながら考える。
 コウスケとミヨ。この二人は仲が良かったはずだ。なのに何故だろうか。先ほどのやりとりを見ると険悪な仲に見える。
 「些細な違い」か。最悪だ。今日こちらに来て初めての接触だったのに。たぶんコウスケイヤなやつと一緒にいるおそらく嫌なやつ、にしか見られてない。まぁ昨日までーー元の世界では無視されていただけマシだろう。
 気づけばお弁当箱の中に米は一粒も残っていなかった。

 第二の世界ーー三日目。既に日が沈みかけていた。
 この世界は失敗だった。
 「些細な違い」が悪い方向に起こってしまったんだろう。元の世界よりも悪い状況に陥ってしまった。

 二日目の朝…コウスケがいじめられ始めた。「違い」のせいで、この世界ではあいつは嫌われていたのだろう。
 朝登校すると、濡れていた。というより水浸しだった、コウスケの机が。それも水ではなく、腐った牛乳びたし。朝登校してきたコウスケは顔を青ざめさせるなり直ぐに拭いたが、刺激臭は取れなかった。それを見て、机に腰掛けたつり目君とその仲間が「くっせ〜」なんて笑っている。小学生かよ。いや、IQが小学生並みなんだろう。小学生思考でそのままコウスケとつるんでいた俺も標的にし始めた。休み時間に廊下を歩くと足を引っ掛けてきようとする。昼休憩では「弁当交換してくれよ〜」などと曰《のたま》い、弁当箱をシェイクしてきた。
 今朝、泥まみれになっている上履きを目にして不思議な気持ちになった。事務室でスリッパを借りて教室へ行くと、ニヤニヤとつり目君がこちらを見てきているのが分かった。無視する。黒板の「欠席」欄にコウスケの名が書かれてあった。それをみていたたまれない気持ちになる。元の世界では一軍だったんだよ。と伝えてあげたいが、それはできないだろう。
 標的が一人減り、単純換算で二倍の嫌がらせを一日中受け続けた。ミヨからも当たり前のように無視された。美寿だけでない。クラスの全員が加担者だった。
 言葉は良くないが、TVや漫画のいじめられっ子を心から尊敬する。この一日で精神を削り取られた。足引っかけなんかはどうでもいいが、親の金で買っている上履きなどの小物や、母が朝早く起きて作ったお弁当なんかを無下に扱われた時に湧いてくる、言葉にできない憎悪と悲哀が折混ざった感情が心を蝕む。耐えられて、あと三日ぐらいだろう。
 「ただいま」を言う気力もでず、ドアを開けてそのままお風呂場に入り鍵を閉める。「ジョー〜? 帰ってい〜るの〜?」と風呂の外から母のくぐもった声が聞こえる。何も答えずにびしょびしょの制服を洗濯カゴに叩き込む。
 シャワーが今日一日の汚れを落としてくれているようには思えなかった。表面は綺麗なのかもしれないが、汚れが未だ残っているような気がしてならない。
 取れない汚れを取ることは、二十分体を擦って諦めた。

 自分の部屋のドアに鍵をかける。
 自分の机に腰掛ける。一分ほど何も考えずにそうしていたあと、ノートとハサミを取り出した。

二話

 朝起きると手の中に紙の感触はなかった。
 第三の世界ーー。この世界の自分の部屋には、第二の世界と比べてあまり違いがないように感じた。
「あさぁ〜ごぅふぁああん!! でぇ〜きてるよぉ〜!」
 いや、母の声の伸ばし方が違う。前はオペラっぽい伸ばし方だったのが今は「!」が多いしリート(ドイツ語の歌曲)っぽい伸ばし方になっている。

 クラス・出席番号確認はすぐに終わった。最初から上履きを忘れた体で事務室へ行けば良かった。デメリットは一日をスリッパで過ごさなければいけないので動きづらいこと。しかしそれは大した問題ではなかった。
 自分のクラスへ行って、教卓の中に入っている座席表を見て自分の席を把握する。
「よっ、はーまーべっ」
 席に座るとぬっとコウスケが前に立った。俺の前にいるのを見ると、コウスケはどうやら一軍ではないらしい。がいじめられてはないようなので安心した。
 そのまま適当に談笑する。
「昨日のニュース見た?」
「んー見てはいるかな、でもチラ見だからほとんど見てないと言っても過言ではないわ」
「なんかポンポコピーズのゴンちゃん不倫してたっぽいよ」
「うわー、あんないい奴そうなのに?」
「そー、まじ意外だよなー。しかもな、相方の嫁とだって!!」
「はぁ? やばすぎだろ、ポンちゃんかわいそ」
「ポンちゃん不憫すぎるわ」
 話しているのは昨日ニュースでやっていた(らしい)芸人の不倫で、正直どうでもよかった。が、貴重な友人ポジションであるはずのコウスケとの関係は壊したくないので「ガチ不憫」と、そう答えた。すると、一瞬の間もおかずに「なになに〜? あっ、ゴンの不倫?」と聞こえた。
 横に振り向くと、俺の机に手を当ててつり目君こと、センダ ソージが立っていた。
「いや、そうそう。ゴンちゃんのやーつ」
 しかしコウスケはソージのことを見向きもせずに話を進める。それを眺める今の心境は複雑だった。今の彼らにはいじめた・いじめられたの関係はないが、前の世界で経験した身としてはもどかしいような不安なような心持ちになる。
 二軍か三軍である俺らの会話にソージが入ってくるということは彼もまたヒエラルキー的には同じような位置にいるということだろう。

「ほーい席につけー」
 ガララっと戸を開けて先生が中に入ってくる。
「うぇっ? せんせー今日早くねっ?」
 先生に対してソージが笑って話しかける。それを先生は「早くない、もう一分前だぞ」と軽くあしらう。
 …ノリが軽い。ソージの。まるで先生と距離が近い一軍のように。そんなことしてたらこの世界の一軍に〆られるんじゃ…。
 だが、そんなソージを見てみんな笑っている。その軽いノリとみんなを笑わせる力。それは一軍の特権。
 ソージは一軍? じゃあなんでさっき三軍の俺らとつるんでいたんだ…?
 疑惑を抱えたままチャイムが鳴り、「ありがとうございましたー」と頭を下げる。するとすぐにコウスケとソージが机に集まってきた。しばらく話していると、「なになにー?」と女子が顔を覗かせる。ミヨの姿もあった。その長い髪を見て、俺は唐突に理解した。
 俺も一軍なんだ…。
 とてつもない高揚感に包まれる。夢にまで描いたこの関係この位置。女子と対等かつ男子の頂点。
 やっと。三回目の世界にして望み描いた地位を手に入れた。試しにずっと温めていたギャグを言ってみる。ドッと空気が揺れ動く「笑い」を、経験した。
 ミヨのその顔が見たくてどれだけ努力したか。その冷めた眼光とゆるんだ口元の調和。
 周りの目線が気にならない。

 今なら世界を救える気がした。

 第三の世界。五日目。
「ジョー、一緒に帰ろーぜー」
「今日何曜か知ってる?」
「火よ…俺部活じゃぁん」
 はぁあ…。と横でため息をつくコウスケの肩をゴツく。
 肩を落としたコウスケは踵を返して歩き去った。
 その姿が遠くなるまで見送ってから肩を下ろす。キャラを作るのは疲れる。元々俺は一軍だったが、ここしばらくはヒエラルキーの底辺を漂っていたから根暗口調が染み付いてしまっていた。だからこの五日間言葉遣い、性格を修正・矯正し続けた。あと一月もすれば慣れるんだろうが、今は意識的にやっているから頭を常に使っている状態。もう常に飴舐めてたい。

 下駄箱に脱いだ上履きを投げ込む。一人、その身で太陽の下に躍り出る。
 トントン、と肩を突かれる。
「今一人…?」
 後ろを見ると、顔を赤くしたミヨが立っていた。

 ほい、そう言いながらココアを投げる。
 ちょっと、投げないでよぉ、なんて言いながらしっかりとキャッチして栓を開けるミヨ。
「ココアはホットだろ…」
 ボソッと呟く。
「アイスココアの良さが分からないなんて…、ジョーはお子様だなぁ」
「っ?」
 ゆっくり上から睨みつける。
「ホットだろ」
 ミヨも下から睨みつけてくる。
「アイス」
「ホット」
「アイスだから」
「ホットな?」
 バチッと目と目の間で電光が爆ぜた。
「はぁぁあ…」
 これ見よがしにため息をついて、「レモネーズキング」のボタンを押す。
 鈍い音と共に落ちてきたボトルを、自販機から取り出すとミヨが目を丸くしていた。
「はぁっ? レモキン!?」
「なんかダメ?」
「いやだってレモキン他のレモネードと違いないくせに10円高いじゃん」
「いや全然違うじゃん、圧倒的にレモキンが美味い」
「はぁー…」
 肩をすぼめてため息をつかれた。

 一口飲むと、確かにこのレモキンは少し薬っぽい味がした。
 些細な違いがこんなところにまで。そういえばそうだ。ミヨの性格がキツくない。みんなに対して丸い。根本的なところは変わっていない気がするが、優しい。こちらのミヨの方が好きだった。
 一息で四分の一程度まで飲む。ペットボトルの蓋を閉めてリュックのサイドポケットに差し込む。
「で、相談したいことって何?」
 ミヨに問いかける。
 「んっ」と言いながらココアの缶をゴミ箱に投げたそのまま、こちらを振り返る。
「あー、相談ね」
 おそらく笑っている彼女の顔を見ることは、夜のベールが邪魔をする。
「んー、今がいい? それとも後で?」
「変わんなくね?」
 即答でそう返すと「ははは」と笑い声が聞こえた。
「確かに、じゃぁ今言うか…」
 そう言ってすすす…と近寄ってくる。

 耳元に「あのね」吐息を感じる。

「好き」

 口に触れる柔らかいその唇。
 その味はココア味。あまりにも甘い。

「大好き」
 そう言って抱きしめる。

 細い鎖骨を掌に感じる。 口に触れる柔らかいその唇。
 その味はココア味。あまりにも甘い。

 細い鎖骨を掌に感じる。

 水族館前でミヨと出会い頭にキス。
 マンタの大きさに驚くミヨをギュッと抱きしめる。
 水槽のすぐ隣の屋台で販売していた「アクアマンタソフト」を買ってあげる。
「美味しい」
 そういって二個と笑った彼女を写真のフレームに収める。すぐにロック画面ではないアプリアイコンが表示されている方の背景に設定する。
「一口ちょうだい」
 そういうと自分が口をつけたスプーンで青いソフトを少しすくって俺の口に突っ込んでくれた。
 爽やかな味と…なぜかココア味を感じた。
「美味しいね」
 そう言うと、珍しい、はにかんだ姿を見ることができた。

三話

「残念なお知らせがある…」
 そういって担任は朝のホームルームを始めた。
 どーでも良くなって窓の外の曇り空を眺める。大半のクラスメイトがそうしているように。
「転校が…決まった」
 ばっ。全員が一斉に教卓を向いたことによって、布ずれの音が重なり、大きくなる。
 無理もない。思っていたよりも重大な「残念なお知らせ」だった。
 教卓と黒板の間の狭い空間には横に少し広い担任と、華奢で目つきが鋭い女子高生が立っていた。
「は…? ミヨ?」
 女子の誰かがポツリと呟く。
 確かにそこには目を伏せたミヨが立っていた。
「この学期が終わったら、転校するそうだ」
 カレンダーを見る。あと二週間。
「なんで」
「親の転勤」
 単純な疑問に、最短の文字数で返すミヨ。
 最悪の空気感のままチャイムが鳴った。
 と同時に駆け出すミヨ。
「待っ」
 叫ぼうにも、窓際のこの席からでは追いつけなかった。
 仕方がないからメッセージアプリを開いてミヨとのトークを開く。
『どゆこと』
 そう送るとすぐに既読がついた。
『親の転勤』
 さっきも言っていたことがそのまま返ってくる。
『えっじゃぁどーすんの』
 すぐに送り返すと既読がついたまま10秒ほどトークが更新されない状態が続いた後「ポコッ」と言う音とともにコメントが送られてくる。
『別れよ』
 その三文字は、今までのどの言葉よりも淡白で、重かった。
『嫌だ 遠距離もある』
『ない』
『なんで?』
 若干の空白。
『遠すぎる』
『遠いって…w』
 虚勢の「w」は届いただろうか。
『私だって別れたくない』
 そう送られてきたから『じゃあ別れなくていいじゃん』と打ち込んでいる間につぎが送られてくる。
『海外なの』
『どこ?』
『ブラジル』
『俺らを隔つのは心の距離じゃなくて物理的距離ってか?』
 最後の望みのジョークは華麗に既読スルーされる。
 スマホを眺めていると、画面右上の時間表示が8:50を指す。少し遅れてチャイムが鳴る。未だミヨは帰ってきていなかった。

 気づけば教卓の前には若い先生が立っていて「歴史始めっぞー」なんていっている。
 今すぐミヨを抱きしめたかった。

「ミヨ!」
 ちびっこも消えた夜前の公園。
 その角で男女二人が向かい合って立っている。俺とミヨだ。
「どういうこと」
 ミヨが伏せていた顔をあげる。その目には涙が溜まっている。
「親の、転勤なの」
「ミヨだけ残るのは…」
「ダメだよ。シングルファザーなの知ってるでしょ」
「…」
「なんかさっ」
 そう言って、見せかけだけとすぐに分かるのに、笑った。
「大出世のチャンスなんだってっ。左遷じゃないんだってっ。でもね。ブラジルなんだって」
 ははは。そう言って笑った。
「ポルトガル語…覚えなきゃ」
 伏せた顔からは、真珠のような涙がこぼれ落ちている。
 もうその雫を見ていられなかった。

 ギュッとその華奢な体を抱きしめる。
 「待ってて」そう耳元で囁く。その体に離すと同時に背を向けた。
 体を前に倒してそのままの勢いで足を踏み出す。
 駆けて自分の家の玄関を勢いよく開ける。そしてそのまま自分の部屋に駆け上がる。
 引き出しを開けるとそこには画用紙とハサミと赤ペンと黒ペン。

 俺は正方形に切った画用紙に六芒星を描き始めた。

 朝。
 紙の感触はない。
 第四の世界。
 今はそんなことどうでも良かった。早く学校へ行きたい。

 いつもはスマホをいじるこの時間帯にいそいそと学校の支度をする。
「じょーぅおきたのぉ〜!?」
「今起きた!」
 怒鳴るように言い返してリビングのドアを殴りつけるようにして開ける。
「ど〜すぃたのそんないrrrrrらいらして〜」
「ご飯何?」
「…ぱぁあん〜よ」
「要らない。まだ焼いてないっしょ。バナナちょうだい」
 答えが返ってくる前に果物カゴから一本取り出す。すぐさま皮を剥いてゴミ箱に投げ込む。裸になった黄色いその身を半分、口に放り込む。

 ダッシュで駅に向かって走る。
 がたんごとんと揺られる間は焦《じれ》ったかった。この電車以上のスピードが出せることはないと思いつつも、少し速くなるんじゃないかと体を揺らしてみたりした。
 駅から徒歩三分のところを一分半で走った。
 流れ作業、最短距離でクラスを把握して教室まで駆ける。

 黒板には束になった紙が貼り付けてあった。
 「サクラさん転校まで」と銘打たれたそれには「あと九日」と大きく、カラフルに書かれている。

 それを見ると同時に踵を返す。
 一時間後には自分の部屋に立っていた。

 画用紙を取り出した。

 第五の世界。十時に起床。

 駆ける。
 電車に揺られる。
 駆ける。
 昇降口から最短でクラスを把握して階段を駆け上がる。
 クラスの戸を勢いよく開けると、授業を受けていたクラスメイトたちが一斉にこちらを向く。
「えっ、ジョー!??」
 すっとんきょうなコウスケの声が耳に入ると同時に黒板を見る。そこには依然変わらぬ姿として紙の束があった。
「ちっ」
 小さく舌打ちをして、また力強く扉を閉める。

 電車に揺られながら考える。
 一日に確認・就寝起床はできて三回。
 残された学校へ行ける時間はあと九日。
 今二回目。あと二十五回しか「変化」を起こせない。
 余裕はない。
 全部で二十七回の「些細な違い」を積み上げることで、ミヨが転校しなくていい状況にしなくてはならない。そして、些細な違いを操ることは不可能で、いい方へ変わってくれるも分からない。
 運ゲー、だった。
 そしてこのミッションの最も難しい点が、世を越えるためには一度寝なくてはならないことである。
 気持ちの昂ぶったままでは寝れるはずもなく、心を落ちつかさねばならない。が、それは簡単にできることではなかった。睡眠薬を使うことも考えたが、今度は起床するのが困難になってしまう。ここで三十分ほど取られるのが痛い。

 プシュー。空気が漏れる音とともに開くドア。
 ドアが完全に開き切る前に、隙間に身を入れた。

四話

 第十の世界。
 残り五日となった今。段々と心がすり減っていくのが分かった。
 効果が感じられない。あの紙はずっと黒板に貼り付けてある。
 目の下にクマがあるのが分かる。鏡なんて見てないけど。
 寝る場所を変えた。学校の近くの漫画喫茶を借りた。今日から一日四、五回は変化を起こせるだろうか。

 この世界も結局転校してしまうことに変わりはないようだった。今頃自分は、なんか最近授業中にドア開けてすぐ去っていく問題児とでも扱われているのだろうか。もちろん、ミヨにも。
 そう思うと笑えてくる。

 第二十五の世界。
 朝起きると、右脚の筋肉がピクピクと震えていた。
 脚が、限界だった。もう歩くことしかできない。昨日まで六日間さんざん走り回ってきたツケ。
 はぁ。
 もう一度紙を作ってそのままもう一回寝た。

 第二十七の世界。
 第二十六の世界も寝たまま過ごした。
 まだ見ぬ三つの変化の積み重なり。

 無駄だった。結局変わっていなかった。


 間に合わなかった。
 第三十四の世界。

 走った。最後のチャンスだった。お別れ会をやっているはずのこの時間に、予定通り開催されていればミッションは失敗。開催されていなければミッションは成功。ミヨは転校しなくていい。
 階段を二段飛ばしで跳ね上がると、盛り上がっているかのような歓声が聞こえた。
 ガララララっ。ゆっくりと、それでいて豪快に扉を開くと、みんなが教室の中央で円状になっているのが見えた。みんな大笑いしている。
 レク? それともクラス会議か?
 どっちつかずのままドアの前で揺れ動いていると、司会であるらしいソージが叫んだ。
「サクラさんお別れ会、一発Gayゲイ-1大トリを飾るのはこの人ダァぁ!!」
 サクラさんお別れ会。サクラさんお別れ会。サクラさん…。
 永遠に頭の中でフレーズがリピートされている。
「ヤジマァ! コウスケェー!!」
 みんなが口々に言う「ヒューヒュー」だの「ぃよっ待ってました!」などの囃し言葉が、今の心の中と相反していて対比している。皮肉なことに、円の中心に躍り出たコウスケを見てミヨも笑っている。

 ピシャリとドアを閉めた。
 校門をくぐると、知らないビルが目の前に聳え立っていた。だいぶ奇抜な形をしているな、と思ったが、周りを見てみても五角形や六角形などの形の建物が多かった。常識が「変化」したのだろう。
 よく見れば道路の白線…だったものは蛍光ピンク線になっている。
 ファッション。みんながみんなシャツだろうが上着だろうがお構いなしにズボンにインしている。

 明日、ミヨは居なくなる。
 なんとも言えない吐息を漏らすと、見計らったようにケータイが「ポコッ」と鳴った。前の通知音は「ピコン」だったのに。
 スマホを一度なぞると、画面が明るくなる。その画面にはメッセージが届いていますと書かれていた。パスワードを入力すると画面が開かれる。
 ミヨとのトークが目を鋭く突く。
 十日前の最後のメッセージ。「愛してる、おやすみ」「おやすみ」。新着メッセージと書いてあるその文言を見た時、眩暈がした。
『別れてください』
 最後の い の字を読むと、また「ポコッ」。トークが更新される。
『最近なんなの。ドア開けては閉めて駆けて行ってしまう。変なやつじゃん』
 違うって。そう声を荒げたかった。
『ちょうど隣町に引っ越すし。別れよ』
 隣町?
 隣町かー。
 「あーあ」。叫びたかった。
 「あー!」 だから叫んだ。
「ぅわあああああああ!! 
 無駄じゃなかったじゃん。
 何回も世界をまたいで。
 結果、いいところまで変えたのに。
 自分のやり方のせいでオワッタ。
 もしかしたら最初の「違い」でもうブラジルから隣町だったのかもしれない。
 もう! 遅い! けど。      」

 ふらふらと漫画喫茶へ戻る。
 新刊コーナー。そう書かれた本棚に、「世界飛んだら魔境でした8巻」が置かれていた。知らない。
 手に取る。
 自分の個室に入ると、若干清掃が入っているようだった。
 知らない漫画の、見たこともない八巻。
 真ん中あたりのページを開く。

 思いっきり引きちぎった。

 戻りたい。
 元の世界に。

 一番最初の世界に。
 なんて幸せだったんだろう。あの世界は。

 第三十四の世界。五日目。

 ミヨもいて。手は届かなくとも目の保養になった。
 美味しい味付けのご飯を食べれて。今つまんでいるポテトは絶妙にまずい。しかも色々な店舗を試して最もマシな味がコレなのだから何も言えない。
 家もあって。ーー帰ろうと思ったら家があるはずの場所にはショッピングモールがそびえ立っていた。
 嫌われててもいい。キモがられてもいい。いじめられてはいなかったし。

 戻らせてくれよ。元の世界に。

 十日目。
 気づいた。
 今、たった三十四回の「違い」の積み重ねでここまで変わったんだから、完璧に上手く行ったら・・・・・・・・・・また三十四回積み直せば、元の世界に戻れるんじゃないか。
 笑みが溢れる。
 紙を100均で買う。ペンは元々持っていた。
 もう失うものは何もない。


  十五年の月日が経った。

 結局元の世界に戻ることはできず、すぐに世界を変えるので定職にすらついていない。
 ご飯睡眠問題は不要な相談で、元々どこでも寝れる体質だったのと、不思議なことに世界を変えると満腹になることが分かった。
 いつも公園のベンチを行ったり来たりしていた。

 もはや「変化」を始めた頃のことは覚えていない。ミヨちゃん。名前はわかるが顔はぼんやり霞みがかっているように思える。
 母親の顔は、右目の下に泣きぼくろがあったことしかわからない。
 もう今更元の世界に戻れたところで、何もできないことはわかっているけど、元の世界に戻れたら何かを規定できる気がしてならない。だから今日も紙を握りしめる。

 あー。と公園の時計を見ると22時を指そうとしていたのでベンチに横たわる。
「ジョー?」
 遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 顔を上げると公園の入り口のところに長身の男の影が立っていた。
「やっぱジョーだよな」
 ベンチのすぐ横に駆け寄ってくると、ようやく顔がぼんやりと見えた。
「誰だ」
「俺だ俺。覚えてるよな、ヤジマだヤジマ。コウスケ」
「あぁ」
 確かに言われてみれば面影がないこともない気がするが、元の記憶が弱々しいからなんとも言えない。
「バカかお前」
 突然の暴言。
「早く帰れ、ここで寝るとかバカじゃねーのか? 死にたがりか?」
 ゆっさゆっさと肩を揺さぶられる。
「は?」
「いやは?、じゃねーよマジで」
 というコウスケの顔には脂汗が浮かんでいるように思えた。
 まるで本当に命の危機が迫っているような緊迫した表情。
「はぁ」
 ただならぬ事態であることを肌で感じ、身を起こすとコウスケの背後が突然照らされた。
「どうかされましたか」
 懐中電灯を持った警察官がいた。
「いやっ!! なんでもないっす!」
 コウスケが警官を視認すると表情を変えた。
「えー、お兄さんではなくてですね、ベンチの上の髭を生やしたあなたです」
 懐中電灯の光が突然俺を照らす。光が何もかもを見えなくさせる。
「ご自宅どこですかー?」
「家なんてねーよ」
 そう答えるとコウスケが「はぁっ!?」と声を上げた。
「そうですか」
 ふっと光がなくなり、世界を再び目で見ることができるようになった。
 走り去っていくコウスケと、銃口をこちらに向けた警官がいた。

「は?」
「えー、ホームレス除去法第三十条・日本国憲法二章五条に則り、あなたを射殺させていただきます」
「は? ちょっと待てよ、警官が銃を使うことは基本禁止されてるぜ?」
 宥めるように言うと、相手は「フッ」と笑った。
「いつの話してるんですか」
 と。
「2015年に憲法が大幅に改正されたじゃないですか。警察官の銃の使用は本人の判断によって許可すると。
 知らないんですか!?『ホームレス除去法』。ホームレスは殺したら賞金授与されるんですよ!」

 些細な違い。その積み重ねか。
 だんだん警察は殺しが許可されるようになっていき、人権が少しずつ損なわれて行ったのか。おそらく昨日の「変化」で決定的に変わったんだろう。
 ふぅ。もしかしたら、長いこの「変化」の旅もここで終わるのかもしれない。死にたくはないが、旅を終わらせることは求めていたことだった。
「分かった」
 両手を体の後ろに回す。
 苦しみたくない。
「心臓狙えよ」
「分かりました」

 パァン。
 夜の闇の中に轟音が響く。
 赤い華が咲いた。

エンディング

 朝。起きる。

 ちゅんちゅんと、鳥のさえずりが聞こえる。

 公園の地面に横たわっていることに気づいて跳ね起きる。

「俺、死んだはずじゃ」
 そう思って地面を見ると、結婚が土にこびりついていた。

 あぁそうだった。








 永遠の【眠り】だ。


           fin.


魔法のiらんど掲載時のヘッダー画像

パラレルワールド 作:宇路野朧
完読ありがとうございました。


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