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らんどまーくすぺしゃる

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2014年8月の記事一覧

「中」のモード

「中」のモード

部屋の外で、犬がキュンキュン鳴いている。構ってもらえないので、さみしがって鼻を鳴らしているのだが、そこで相手にしてやってもきりがない。しばらくすれば諦めるので、ちょっとかわいそうだが放っておく。

そんな犬の鳴き声を聞きながら、人間の多くがやっていることも、要するにこのキュンキュンと変わらないなあと思う。さみしい時に、犬ならばキュンキュンと鼻を鳴らすが、人間ならばゴクゴクと酒を飲んだり、スパスパと

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そう問うあなたは何者ですか?

そう問うあなたは何者ですか?

「なぜ仏教徒を名乗らないのですか」と質問されることがしばしばあるのだが、これは実に不思議な問いだなあといつも思う。私としては、そういう人たちが私に対して「仏教徒を名乗るべきだ」と考える理由のほうに、むしろ関心を抱いてしまうところだ。

「それだけ仏教の勉強をしているのだから」と言われるのだが、勉強をしているからといって、その対象と全く同じ思想信条を共有するに至るわけでは必ずしもないのは当然のことだ

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煩瑣といっても限度がある

煩瑣といっても限度がある

昨日から断水が続いている。いまは雨季の真っ盛りで豪雨が毎日のように降っているから、水が足りないということはないはずだが、それでも断水してしまうのがミャンマークオリティというやつである。飲料水は別に確保されているので、それは問題ないのだが、シャワーやトイレなどは実に不便で、こういうところは、ミャンマー暮らしのつらいところである。

昨日はアビダンマ/アビダルマに関する「悪口」を書いたけれども、誤解の

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首から下の楽しみ方

首から下の楽しみ方

必要があって、アビダンマ(テーラワーダの仏教哲学)の復習をする。勉強をするたびに感じることだが、これは本当に、いたずらに煩瑣な体系だ。スコラ哲学の勉強を本格的にやったことはないのだが、アビダンマに関してはscholasticという形容詞が、まことにぴったりと当てはまっていると思う。

『倶舎論』の研究者としても令名の高かった荻原雲来博士は、アビダルマ(アビダンマのサンスクリット語形)のことを「学者

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わりと易しい日本語のこと

わりと易しい日本語のこと

久しぶりに、語学をまじめに勉強中。いつものことだが、語学学習をやっていると、私の創造性というか妄想力が、ゴリゴリと削れていく音が聞こえてくるような気がするのだけど、その削りかすが腐葉土になって新しいものが芽生えてくるのも経験的に知っているので、いまはしばらく我慢である。

「日本語は難しい」と、日本人によってしばしば語られることがあるけれども、こと会話に限って言えば、むしろ日本語はずいぶん易しいほ

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敢えて関係し続けること

敢えて関係し続けること

友人の僧侶が出かけるのだけど、いつものカッピヤ(上座部僧侶の雑務を代行して手伝う人)がいないというので、代わりにタクシー代を支払うなど。こちらの僧侶は、本当に何をするにしても人に頼まなくてはならないので、全く苦労の多いことだと思う。

彼らがタクシー代を支払えないのはなぜかといえば、上座部僧侶には、「金銭に触れてはならない」という戒律があるからである。触れられないのだから、当然所持しておくこともで

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彼らは本気でやっている

彼らは本気でやっている

ウ・ジョーティカ師からは、ほとんど会うたびに「日本の方々がそのまま『テーラワーダ』をやろうとする必要はありませんよ」と言われるのだが、これは本当にそのとおりだなあと思う。日本と東南アジアの上座部圏では、文化的な背景が違いすぎるからである。

例えば、日本ではテーラワーダなど外来の仏教(そして、それを語る人の主張するところによれば「本来の仏教」)を紹介する際に、それが「科学的で合理的」な教えであって

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「私」とともにいられること

「私」とともにいられること

仏教というのは「無我」を説くものだから、その瞑想というのも「私」を消し去るために行うものだと言う人たちがいる。これはたしかに半分正しい。ただ、瞑想というのはおそらく、それだけに尽きるものでもないと思う。

人にとって、「私」という概念でありはたらきでもあるものは、生きていくために必要不可欠の役割を果たすものだが、同時に厄介な重荷でもある。それは適切に機能している限りにおいては、むしろ有益であると言

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