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「私」とともにいられること

仏教というのは「無我」を説くものだから、その瞑想というのも「私」を消し去るために行うものだと言う人たちがいる。これはたしかに半分正しい。ただ、瞑想というのはおそらく、それだけに尽きるものでもないと思う。


人にとって、「私」という概念でありはたらきでもあるものは、生きていくために必要不可欠の役割を果たすものだが、同時に厄介な重荷でもある。それは適切に機能している限りにおいては、むしろ有益であると言えるものだが、時に「私」は暴走してしまうこともあって、その場合には害にもなる。要するに、現実問題としては、「私」は葬り去ればそれで済むといった性質のものでもなくて、むしろ大切なのは、それをいかにして適切に機能させるかであるということだ。

「私」はときどき暴走する。「私」というのは、常に「自己自身」を充足しようとするはたらきであり、その営みを通じて外延をかき集めることで、また「自己自身」の内包を再規定しようとする、本性として循環的な運動だ。だから、そのサイクルが順調に動いているうちはいいけれども、何かのきっかけでそこに齟齬が生じれば、容易に変調して暴走する。

そして、そのように暴走してしまった「私」が求めるのは、自らの動きをとりあえず麻痺させてくれる、何かしらの刺激である。それは強い快楽であってもよいし、また強い痛みであってもよい。痛みであれ快楽であれ、強烈な刺激は「世界」をその一色に染めあげてくれるから、それが持続しているあいだだけは、「私」も暴れずに済むわけである。自傷が時に人を「安心」させてくれるという、逆説的な事態が生じることがあるのは、おそらくこうしたメカニズムによっている。


そのように快楽であれ痛みであれ、強い刺激によって「私」を一時的に忘れようとすることが習慣化している人たちは、瞑想も同じように、「私」を消して楽になる営みだと解釈しがちなのだけれど、私見では、これはおそらく誤りである。

「無我」という教説が語っているのは、「私」というのが、実際のところは種々の作用の複合によって形成された概念にすぎないということだけれど、それは同時に、様々な対象を「私」と名指し続ける作用が、現象としては常に継起し続けているということを、事実として認めている教えでもある。

したがって、「ありのまま」を如実に観じることを旨とする瞑想がまず目指すことは、そのような作用の生起自体を消し去ろうすることではなくて、むしろそれが継起するままに任せつつ、しかしその作用が形成しようとする「私」と同一化して、それがもたらす衝動の命ずるままに、ただ刺激だけを追い求める自動機械のような「私」になりきってしまうことは、なんとか避けようとすることである。

言い換えれば、「私」形成の作用は常に生起していることを認めた上で、それがもたらすある種の「居心地の悪さ」もそのまま観じ、そうすることで、その「居心地の悪い私」から逃避するために、刺激を求めてしまうことは差し止めること。「私」を消し去ってしまうのではなくて、むしろ生じ続ける「私」というはたらきを観察し受容して、それとともにいられることを目指すこと。これが、瞑想という実践のもつ、一つの意義であると私は思う。


もちろん、一口に瞑想と言っても、そこには様々なヴァリエーションがあるし、またウィパッサナー(観察の瞑想)だけに限っても、その意義は上述のことのみに尽きるわけではなくて、そこにはまだまだ「先」がある。ただ、瞑想というのが単に「私を消すこと」だけを目指しているものではなくて、それが同時に「私とともにいられること」を志向することがしばしばであるということは、覚えておいても、決して損はないと思う。



※今日のおまけ写真は、麺屋台の女の子。厚塗りのタナッカー(ミャンマーの伝統的なお化粧)が可愛いですね。

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