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彼らは本気でやっている

ウ・ジョーティカ師からは、ほとんど会うたびに「日本の方々がそのまま『テーラワーダ』をやろうとする必要はありませんよ」と言われるのだが、これは本当にそのとおりだなあと思う。日本と東南アジアの上座部圏では、文化的な背景が違いすぎるからである。


例えば、日本ではテーラワーダなど外来の仏教(そして、それを語る人の主張するところによれば「本来の仏教」)を紹介する際に、それが「科学的で合理的」な教えであって、「宗教ではない」といった語り方がよくされる。だが、実際に上座部圏などでしばらく生活してみればわかることだが、そこで現実に受容されている仏教は、多くの場合「宗教」以外の何物でもない。

実際、上座部圏の一般的な仏教信徒の生活は、私たち現代日本人の文化的なバイアスからしてみれば、「迷信」とも表現したくなるような呪術的な儀式に溢れている。例えば、タイの一般的な仏教徒のあいだでは、サーイシンと呼ばれる霊糸を用いた、厄除けの儀式がよく行われる。これは、木綿の糸をよりあわせて作ったサーイシンを仏像から家の周囲に張り巡らせ、それを僧侶の手に結びつけて、彼らがそのまま経典を誦唱することにより、その家が言わば「聖化」されて、悪霊などから護られると信仰されているものだ。

こうした儀式を「宗教ではない」と主張することはたいへん難しいと私には思われるし、また一般信徒はこうした呪術的な儀式や「非科学的」な信仰を通じてテーラワーダを受容しており、その彼らが布施を通じて僧侶の生活を支えることでこの宗教が現実に存続し得ている以上、これがテーラワーダの本質ではないと強弁することも、また不可能であると私は思う。

例えば、ミャンマーのテーラワーダのセクトの一つに、「仏塔に花や食物などを捧げても、仏塔が汚れるだけで何の意味もない。そんなことより戒定慧の実践をしろ」と主張した一派があったのだが、彼らは民衆の支持を得ることができず、いまはほとんど影響力をもっていない。ゴータマ・ブッダの仏教を基準にすれば、彼らの主張は全く正しいと言うしかないのだが、そんなハードな教説を受け入れて、現実に実践できる人などごく一部である。要するに、人々の信仰心を末永く維持・保全して、そうすることで、ゴータマ・ブッダの教説を伝える僧侶の集団を存続させていくためには、結局のところ仏教も、「宗教」をやらざるを得ないわけである。

そして、その「宗教」を根底で支える文化的な背景となっているのは、もちろん業と輪廻の世界観だ。いつも述べているように、インド文化圏の人々にとって、輪廻転生というのは絵空事でもなんでもない、端的な「事実」である。その「事実」であるところの業と輪廻の世界観に基づいて、彼らは僧侶に布施を行い、その生活を支え、そして自身にできる限りの実践も行おうとする。

ビルマ語ならばグドー(善業)、タイ語ならばブン(福徳)という言葉は、彼らが日常的に口にするものだが、そこには私たちが簡単に「業が深い」と言うような軽いニュアンスではなく、生々しい実感に基づいた、本気の「信仰」が宿っている。彼らが布施をしたり善業を積もうとしたりするのは、何か形而上学的な信念や、積み上げられた思索に基づいた理論によっているわけではない。上座部圏の一般的な仏教徒には、グドーやブンを積み上げることにより、現実の自分自身の将来において、具体的な果報が得られるはずであるという、確固とした「実感」が存在する。

換言すれば、「自分にとっていいこと」があると本気で信じることができているから、彼らは面倒だろうが経済的に苦しかろうが、布施や労力の提供を積極的にするのであって、そうした行為は、何か高尚な知的体系を「勉強」して深く「理解」した結果として生じているというよりは、むしろまず何よりも、業と輪廻の世界観を「事実」として受け入れてしまっているという、文化的な前提条件が根底にあってこそ、生じているということである。

もちろん、テーラワーダに知的な議論がないわけではないし、それに精通した人々がいないわけでもない。むしろ、テーラワーダには高尚な理論がありすぎるほどあるし、それに通じた碩学もいすぎるほどにいる。だが、そのような理論や碩学の存続を可能にしているのは、そうしたことには知識もなければあまり関心もないような一般の仏教徒たちが有している、空気のような信仰心であり、またそれを支えている文化的な背景だ。


こうした現実を考えるにつけ、やはりウ・ジョーティカ師の言うとおり、日本にテーラワーダを「そのまま」移入するということは、非常に難しいであろうと私も思う。日本にテーラワーダを東南アジアで行われているままに「移植」しようとするのであれば、大量の宗教的無産者を支えるに足るだけの「空気のような信仰心」を、相当程度に多くの日本人に、もってもらうことが必要となる。だが、これは要するに業と輪廻の世界観を多くの日本人が当然のように「事実」として受け入れることを目指す、というのと同じことだから、それはほとんど現状の「日本人」や「日本文化」の定義を書き換えるような、難事業になってしまうだろう。

ただしもちろん、いまアメリカやヨーロッパで実際に行われており、また日本でも徐々にその試みがはじまっているように、高度な知識と真摯な求道心を備えた少数の人々が、その才質を認めたさらにごく少数の僧侶(もしくは在俗の専業仏教者や瞑想指導者)を支えて、その人から教えを請いながら、小規模の集団を作って実践を行っていくということは可能だと思う。

その場合の当該集団におけるテーラワーダの受容の仕方は、自分たちにとって必要な限りの「技術」の習得という性質を色濃く帯びるから、それは上座部圏の文化をそのまま「移植」するという結果には、(欧米においてもそうであるように)繋がらない可能性がやはり高い。

ただ、そうした活動を続けていった結果として、日本人にも業と輪廻の世界観が多少なりとも「熏習」されるということはあるかもしれないから、それを気長に目指していくというのであれば、もちろんやってみるのもよいと思う。その結果がどうなるのかは、私にはまだ今のところ、予想することができないのだけれど。



※今日のおまけ写真は、仏像に金箔を貼る人々。貼られすぎて像の下半身のあたりはポワポワになってます(O_O)

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