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煩瑣といっても限度がある

昨日から断水が続いている。いまは雨季の真っ盛りで豪雨が毎日のように降っているから、水が足りないということはないはずだが、それでも断水してしまうのがミャンマークオリティというやつである。飲料水は別に確保されているので、それは問題ないのだが、シャワーやトイレなどは実に不便で、こういうところは、ミャンマー暮らしのつらいところである。


昨日はアビダンマ/アビダルマに関する「悪口」を書いたけれども、誤解のないようにいちおう付け加えておくと、私はこの種の仏教論書の研究が無意味であると思っているわけではないし、個人的に興味をもてないというわけでもない。当該の記事中でも述べたように、アビダルマはそれぞれの部派の「内在的論理」、言い換えれば、そのセクトに属する人々にとって「仏教」とは何であったかということを知るためには好適の資料であるし、そうした「内在的論理」を追いかけていく作業については、私自身も必ずしも苦手でもなければ嫌いでもない。

例えば、木村泰賢博士の『小乗仏教思想論』にまとめられているアビダルマ論などは、読むたびに本当に興味をそそられる。私は個人的な関心として、テクストに語られる思想については、「何が正しいか」ということよりも、「なぜそれが正しいとされるか」のほうにずっと大きな興味を感じるので、その点が木村博士の一流の知性によって丁寧に腑分けされていく上掲書の議論は、私にとって、仏教を思想的に扱う場合のお手本のようなものである。


したがって、そういう意味では私にとってもアビダルマは「面白い」し、そもそも唯識や華厳について考えるためにはアビダルマがわかっていないと話にならないので、勉強する必要性もちゃんとある。昨日の記事で「さほどに深入りするほどの魅力は感じられない」と書いたのは、そのレベルの興味や勉強は前提とした上で、さらにアビダンマの「深入り」したところに手を出すほどの時間や意義は、私にとっては存在しないということである。

当該のエントリでも少々触れたように、テーラワーダのアビダンマは、「深入り」してくると、ひたすら数合わせの世界になる。例えば、アビダンマでは心法は89(もしくは121)で、心所法は52あることになっているのだが、それらを全て覚えれば話が済むというわけではなくて(もちろん、とりあえず覚えなくてはとてもテクストが読めないので、仕方なく全部覚えたが)、さらにその組み合わせが問題になる。つまり、一つの心に伴い得る心所はいくつあるか、あるいは一つの心所が結びつき得る心はいくつあるか。そういう場合分けをひたすらやっていって、その数を全て覚えたり、またさらにそれらを組み合わせたりするわけである。

例えば、貪根心の第一である喜倶悪見相応無行の心には、同他心所の13と共不善心所の4、そして貪に見が加わって、合わせて19の心所が伴う。何を言っているのかさっぱりわからないと思うが、まあとにかく89(121)の心法のそれぞれにこういう組み合わせがあって、そのくらいは基本中の基本だから、とりあえず覚えておかなければ次の段階のテクストが読めないわけだ。


そして、繰り返すがこの程度は基本の基本だから、それらを全て記憶していることを前提とした上で、注釈書では、組み合わせの組み合わせや、組み合わせの組み合わせの組み合わせの議論などがはじまる。私がアビダンマについて、「学者の玩弄物」だと評されても仕方がないな、と感じるのは、このレベル以降の話である。だから、例えば『倶舎論』くらいの議論であれば、個人的にはむしろ十分に興味深く読める。あのくらいの基本的なテキストであれば、いくら「煩瑣」だと言ったところで、その程度は、たかが知れているからである。


もちろん、上述のレベルまで「深入り」したアビダンマの議論にも(というか、そういうところにこそ)、テーラワーダの「内在的論理」を発見することは可能であるに違いないと思うが、管見の範囲では、そのレベルの煩瑣な議論を、そこまで考えて勉強している人たちは学僧にも少ないし、多くの場合、そのような数合わせは「なんとなくありがたいから」という理由で学習されて、ゆえにますます煩瑣かつ秘教的になっていく。

したがって、私としては、アビダンマに一定の興味はあるし、ゆえにテクストを読み進めるために必要な限りの知識は覚える努力もするけれども、そのレベル(つまり、基本的な論書や綱要書のレベル)を超えた煩瑣な議論に関しては、それを全て記憶して自由自在に数合わせができるようになるために努力したいとは個人的には思えないし、その時間があるならば、自然科学の本でも読んでいたいと感じるわけである。

ただし、希望としてはそういうことでも、アビダンマ研究の中心地であるミャンマーで仏教の勉強などをしていると、どうしても「そういうところ」と関わらなければならないこともある。今日は残念ながら、そんな勉強をしなくてはならない日なので、朝からどうにも憂鬱な気分なのであった。


※今日のおまけ写真は、先日およばれしたミャンマーの家庭にあった仏壇。敬虔な家のようで、仏像が電飾でキラキラに荘厳されてます。

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