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首から下の楽しみ方

必要があって、アビダンマ(テーラワーダの仏教哲学)の復習をする。勉強をするたびに感じることだが、これは本当に、いたずらに煩瑣な体系だ。スコラ哲学の勉強を本格的にやったことはないのだが、アビダンマに関してはscholasticという形容詞が、まことにぴったりと当てはまっていると思う。


『倶舎論』の研究者としても令名の高かった荻原雲来博士は、アビダルマ(アビダンマのサンスクリット語形)のことを「学者の玩弄物」と断じておられたそうだが、そう言いたくなる気持もよくわかる。そもそも多く恣意的に定められた現象の分類(これは、部派ごとにアビダルマが大きく異なることからも当然である)に、それでも無理やり筋を通そうとするものだから、体系はどんどん煩瑣になる。

テーラワーダのアビダンマは、歴史が長いだけあって、その煩瑣な体系を、さらに様々な数合わせによっても表現しようとしているから、おかげで学習者の負担は増すばかりである。もっとも、「学者の玩弄物」なのであれば、むしろ負担は多いほうが、ありがたみも増すのかもしれないけれど。


そして、もう一つアビダンマが私にとって問題なのは、そのように煩瑣なシステムをわざわざ構築しているにもかかわらず、その論理が緩いというか、説明がビシッと決まりきっていないことである。

玉城康四郎博士も、仏教の論書は西洋の哲学に比べると論理の緻密さにおいて見劣りする、といった趣旨のことを言われていたが、これは私も全くそのとおりだと思う。いつも言うように、仏教において言葉というのはそれのみで事態の描写を完結するものではなく、そこに読者の実践が伴ってはじめて円満な表現として成立するものだから、とりあえず言葉の範囲だけで勝負しようとする哲学書と比べると、どうしても論理の粗さや用語の恣意性が目立つことになる。要するに、実践によって経験される直接知が論理の粗さを補完してくれるから、テクストにおける筋道の一貫性に関しては、そこまでこだわる必要がなかったわけだ。


そんなわけで、アビダンマに関しては、他部派のアビダルマと比較しつつ研究することで、テーラワーダの「内在的論理」を知ることができるという、史学的・文献学的な研究意義はあるけれども、世界や人間の「如実」をそれ自体として厳密に記述していると言うのにはほど遠い体系なので、学者でも「仏教徒」でもない私としては、さほどに深入りするほどの魅力を感じない対象である。その時間があるならば、現象学や自然科学の本を読んだほうが、私にとってはずっとよい。

ただ、上述の玉城博士が、西洋哲学の緻密な論理性を評価しつつも、同時にそれはやはり「首から上の体系」(即ち、身体性を欠いた思考のみの所産)だとも述べているように、仏教の論書には、「読んでいる私」の身体性を否応なく巻き込んでいくという点において、西洋哲学とは別種の魅力が存在することも事実である。

テクストを読む「私」のあり方を抜きにしては存立し得ない仏教の哲学を、「普遍性を欠いた不完全な体系」と評価するか、「身体性を組み入れたより現実的な体系」と評価するかは人それぞれであると思うが、私としてはいくら煩瑣で面倒でも、今後もアビダンマ/アビダルマとは多少の関わりはもたざるを得ないので、できれば後者の観点に立って、少しでも勉強を楽しむことにしたいと思う。



※今日のおまけ写真は、ミャンマー一般家庭の学士号取得者の写真。大学を出た子供のいる家庭には、必ずこの種の写真が飾ってあります。

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