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「中」のモード

部屋の外で、犬がキュンキュン鳴いている。構ってもらえないので、さみしがって鼻を鳴らしているのだが、そこで相手にしてやってもきりがない。しばらくすれば諦めるので、ちょっとかわいそうだが放っておく。

そんな犬の鳴き声を聞きながら、人間の多くがやっていることも、要するにこのキュンキュンと変わらないなあと思う。さみしい時に、犬ならばキュンキュンと鼻を鳴らすが、人間ならばゴクゴクと酒を飲んだり、スパスパと煙草を吸ったり、パコパコとセックスしたり、モクモクと働いたりするというだけのことだ。


人間は「自分」の抱えているさみしさから逃避するために、労働したり生殖したり娯楽したりする。そうやって生の時間を「やること」によって埋め尽くしておけば、頭をなでてもらった犬のように、そのあいだだけは、なんとなく満たされた気持ちでいられるからだ。

もちろん、それが悪いと言うつもりはない。私たちの社会も文化も、実際のところ、この「さみしさからの逃避」によって、多くが成り立っているものだからである。ほとんどの人間が、労働や生殖や娯楽に耽落(Verfallen)しているおかげで、仕事も家族も人の繋がりもできてくる。ゆえに本人たちにとってみれば、逃避どころか、自分たちの振る舞いこそが「現実主義」的であるのだと、感じられていることだろう。

ただ、「現実」の受容の仕方というのは、そのように「やること」で頭と身体を埋め尽くす、「耽落」だけに限られているわけではない。それよりもむしろ、そのような「やること」へと自らを駆り立てる意識の流れを観察し、ただそれとともにあることをし続けるという、「現実」受容のモードも存在する。その時に必要なのは、「何かをすること(有為)」であるというよりも、むしろ「何もしないこと(無為)」だ。


こういう「無為のモード」は、もちろん仏教的な意識のあり方であるわけだけど、私たちにとっては話はそれで済むわけではなくて、もう少し「先」がある。即ち、「無為のモード」を身に宿しつつ、再び「有為」の世界に戻るという、仏教用語で言えば、空(無為)でも仮(有為)でもない、「中のモード」というやつだ。

私が本当に語りたいことは、実はこの「中のモード」についてなのだけど、これは「無為のモード」を前提にした上ではじめて理解されることなので、なかなか直接には語りにくいというジレンマがある。「中のモード」について語れば、単に「有為のモード」をベタに肯定しているように捉えられてしまうことがしばしばであるし、だからといって「無為のモード」を強調すれば、「ニー仏は有為の切実さを忘れている」とか、そういう批判を受けてしまうのもよくあることだ。

どちらにしても、「そういうレベルの話はしていないんだけどなあ」と感じさせられてしまうことはしょっちゅうなのだけど、そこで愚痴っていても仕方がない。とりあえずは相手に合わせつつ、根気よく話をしていくしかないのだろうと思っている。


※今日のおまけ写真は、タイの寺院にあった瞑想用の個室。なんだか岩室みたいな不思議な雰囲気の部屋になってます。(写真二枚)

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