見出し画像

本当は何も知らないで。

「何かを知っていることは何かを知らないということだ」

おみくじに書いてあったことを調べたら、そんな風に解説している文章を見つけた。

自分はよく、他人の"演じていない"隙間っぽい部分を目の当たりにしたとき、その人の核心的な部分を知った気になる。
実際に知っているかは別として、知っていない可能性もあるのに知っている顔をしてしまう、そのことがとてつもなく恥ずかしい。まじで最悪なのだ。(ギャル)


私は"知っている"には無数に種類があると思っていて、「好き」と「好きじゃない」を"知っている"ことについて話をしたい。人によって幅は違えど、生きてきた道で養われてきた"直感"の話である。


人に「好き」だと思われることは、多くの人にはありがたいとか嬉しいと感じられる(ようだ)。自分がその人の中に、ここに"いる"と、存在を認められているのと同じだから、きっと悪い気はしないのだと思う。
この人は自分のことをよく知っていると思える関係は「信頼」へと繋がっていく。
しかし、自分のことを「好き」な人が本当に自分のことを"知っている"、"分かっている"かどうかは別だ。

反対に「好きじゃない」場合は肌感的に好きじゃないと分かることで、私はこっちの方がよく見聞きする。雰囲気や声、口調、語彙のチョイスでなんとなくこの人を好きじゃない(嫌いとは別)と感じるアレだ。
「好きじゃない」と肌感的に察することは、確実に「知っている」ということだと思う。ただし、その人を知っているということではなく、自分の感性の問題だ。理由のある「好きじゃない」は「好き」になる可能性があるが、理由のない肌感的な「好きじゃない」はどうしようもないことだと個人的には思う。
この感覚は「偏見」と表現されたりするけれど、個人的にはとても大切な感覚だと思っている。これがあるから自衛本能を働かせたり距離感を考えたりできるし、「好きじゃない」が分かるから好きが存在できるという人も多いように思うからだ。

こちらの"知っている"を発信することは、やり方によっては対象の人(またその対象を好きな人)から、"何も分かっていない奴"または"分かり合えない奴"の立ち位置につけられるかもしれない。
好きじゃない理由に肌感的なものを説明されて理解するのは難しい。
でも、聞かれてもいないのにわざわざ「好きじゃない」を発信して無駄に戦いを挑むことは不毛なので、ネガキャン発信をしようとしている「好きじゃない察知タイプ」の皆さんは大人しくしておくのが吉である。

(話が逸れました)


私がいつも考えてしまうのは前者の、「好き」で知っていると思っている場合のことだ。

学生時代の友人関係を想像してたとえると、
AとBとCがいて、AとB、BとCはそれぞれ2人で遊ぶ仲だけれど、AとCは2人で遊ぶほどの仲ではない、みたいな構図があったとき、AからBに、Cについて説明的に話すことはあまりなかった。なぜなら、AよりもBの方がCのことを知っている気がするからだ。

でも、仲が良いからよく知っているかという話は常々、そういうことでもないような気がしてしまうのだ。

持っている情報が多かったり過ごしている時間が長くても、本当にその人のことを知っているのかと考えると、分からない。
当たり前だが、その人が待ち合わせ時間ギリギリで起きた時にすっぴんで走ってくるか、諦めて遅刻してくるか、予想することは出来ても本当にそうなのかは分からない。自分の予想を信じることしかできないのだ。
これは結局、自分のことは自分しか分からないと言いながら自分でも自分のことが分からないときがある、ということとほとんど同じなのかもしれない。
自分が知っていることは、その人の「全て」ではないし、自分の中にも知らない自分がいるのだ。

その人らしくないと残念に思うとき、裏切られた気分になるとき、それは自分が知らないその人が垣間見えただけの話なのだ。もしかしたらその時、その人自身も知らない自分を見ているかもしれない。
頭で理解するのは簡単だけれど、これを本当の意味で解るのはきっと好きな分だけ難しいのだと思う。


期待したり誇らしかったり落胆したり許せなかったりすること。それはとても個人的な「好き」だ。

要するに、人を好きになっていくことは、「知っていると"思えること"」が増えていくことだと思っている。

「知っていると思えること」は、"その人"が自分の中にいると同時に、"その人を知っている自分"がいるということなのだ。そうなると、「個人の中で作られる社会」のような難しい事実が生まれる。その社会の中の"その人"が絶対的なものだと無意識に信じてしまう。これがすこし、キケンなのだ。

しかし。
自分が知っていることがそのものの全てではないことを解っていたいと思う一方で、何かを知っていると思えたときに「すなわち何かを知らないのだ」と考えなくてはいけないのはとても虚しいことだ。

「自分が見てたものが全て」という考えは、「全てを知る」ことが不可能な社会でよりよく生きるための、私が思っていたよりも広くて深い先人の教えなのかもしれないと思う。

本当は何も知らないで、人を好きになる。23の夏

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?