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“多様性”って意外と広くないかも

「自分が経験してきたことが、
下の世代に通用しない」

と言うのは、いつの時代の上司も
体験してきたことだと思う。

故に、「今の若者は....」
と言うことを居酒屋で、
テンプレのように論じられていることは
誰もが想像のつくところだと思う。

そして、最終的に行き着く答えは
否定を繰り返した後に、
「今流行りの“多様性”ってやつか」
って言う風に締め括る場面に
何度か立ち会ったことがある。

その度に、違和感というか
古いものを見て“趣きがある”と言うくらい
どこかハマりきらない感覚を感じながらも
それを聞いていた。

改めて、”多様性“を考える時に
“多様性ってそんなに、軽かったっけ?”
って思ったりもする。

今の若者は論争で言うと、
多様性というよりかは
彼らがどう考えているかのことであって、
その中に全く新しい僕たちが
考えたことが一度もないものが
あるのかと言うとそうではない。

残業をしたくないと言う今の子がいて、
残業したくないと考えたことはないのかと
問われるとおそらく違う。

どこかで現実を知り、諦めてきたことを
論じているに過ぎないのではないかと思う。

おそらく“多様性”と言う言葉は、
自分の価値観の中には無かった考えに
触れたときや、自分が認めたくないものと
共存することを認めるときに使われるもの。
いや、使われるべきものだと思った。

おそらく全く違う考えを聞いた時に
多様性と思わずに、異なった意見と位置付ける。

と考えると、今使っている“多様性”と言う言葉は
広そうで広くない。

全く異なった意見を受け入れるのが
多様性であると思う。

もちろん筋違いや、お門違いな意見は
また別の問題があるが、本来は
それを否定してしまう多様性は
多様性のようであって多様性ではないと
僕は思った。

と思ったことを言っても、
たぶん異なった意見であり、
多様性としては認められない人がいることも
確かで、多様性の広さは人によって違い
言葉とは難しいなと思わされる出来事でした。

“たようせい”......

ほなまた!

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