見出し画像

【8】サポーターから浦和のサッカーを創るという考え方

今季の浦和のサッカーを”見る”のはかなり苦痛である。(であった)

一度目はライブで見ることができるのだが、ここ最近は二度目への手が伸びない。どうしてか?面白くないという声がサポ仲間の一部から聞かれる。もしかしたらそれはミシャ全盛期のサッカーと比較してのものだろうか?勝利した後も勝てばOKというような感想が多く、結果問わず試合内容に不満を感じている人間は一定数いるように自分視点からだと思える。個人的には、私が繰り返し見る他の試合と比較した結果、ここ最近の浦和の試合からはプレー原則などのディティールが感じられず興味を引く部分が少ないことに起因しているのではないかと感じていた。

サポーターがなんとなく首を傾げてしまうようなチームになぜなってしまったのか?その疑問の答えを考えながら読んでいただきたい。ここで記すのはあくまで僕なりの一つの仮説である。

◾️ミシャとは何だったのか

浦和のサッカーは?と聞かれた時に僕が想像するのは、2006年以降の攻撃の局面で縦に速いサッカーだ。今でもそのようなシーンが作り出されるとスタジアムでも一際盛り上がる印象がある。

だが今までの何となくあったスタイルに半ば反する形のミシャが来て、ポゼッションサッカーが出来上がった。かつてはGKまでボールを戻すと怒号が飛んでいたゴール裏も、GKもパス回しに参加して相手のプレスを最終ラインまで使いズラすサッカーに適応していき西川にボールが渡ると自然に拍手する雰囲気が醸成された。

15位にあったチームをタイトルを争うチームにまで引き上げ6年間で様々な功績を残した。勝利という視点から言えば十分すぎる成功なのだろうが、後任にミシャスタイルを継ぐような監督が現れずフロントもそのような人材を選ばなかった実情を見て、フロント主導のスタイルにミシャを当てはめたわけではなく、広島での実績を鑑みて実力者であるという点で招聘したと見ていいのではないか。要は浦和のスタイル構築というものは考えられて来ていない。

もし、フロントの中でミシャスタイルの失脚=ポゼッションサッカーの限界として捉えているのなら大間違いで、例えば森保の広島のようにシャドーの守備意識、カウンターを受けた際の帰陣枚数等の修正で一時代を築いた例もあるだけに、ミシャの遺産を生かしていく方法を模索するやり方はあっただろう。

ともかく、フロントとして過去の縦に速いスタイルをより鮮明に目指すのか、もう一度ポゼッションスタイルを目指すのか、はたまた別のスタイルを目指すのか、いくらでも選択肢がある中で、ここまで明確な打ち出しがないまま宙に浮いた状態で来ている。

◾️サポーターからサッカーを変える

フロントの怠慢だと斬り捨ててしまうことは簡単だが、私としてはサポーターの姿勢にも一因があるのではないかと考えている。サポーターのサッカーに対して結果しか見ない見れない日和見的な姿勢が、フロント・監督・選手にとって捉え所のない存在として映っている面があるのではないかと思うのだ。

欧州を見渡せば、極端だが十分に結果を残していながらクラブのサッカースタイルにそぐわないとして解任・退任されたのではと捉えられる例は直近ではバルセロナのバルベルデ、ユヴェントスのアッレグリ(スタイル構築方向に向かうというのは一部の噂)のようにあって、一定数その流れは受け入れられている。

「浦和らしさ」の答えとして、浦和はサポーター文化と言われることが多い中、サポーター主導で浦和のサッカーというものを求め、クラブとともに作り上げていくという方向性も一つの考えとしてありだと私個人としては思う。


◾️ゲームモデルという考え方

ペップのバルセロナ、モウリーニョのチェルシー、ファーガソンのユナイテッド、ヴェンゲルのアーセナル。一時代を築いたチームは誰もがどんなサッカーか想像できるような明確なモデルを持っていた。特にモウリーニョやペップらは、ポルト大学教授ヴィトール・フラーデが提唱するTactical Periodization(戦術的ピリオダイゼーション)の影響を強く受けている。

ゲームプランを考える上での一つの考え方に過ぎないこの戦術的ピリオダイゼーションだが、欧州に留まらず世界のサッカーシーンにおいて支配的な考え方になりつつある。戦術的に遅れていると言われるJリーグでも取り入れる流れは確実にあり、今季J1で旋風を巻き起こしている大分の片野坂監督のコーチ陣にフラーデに学んだ安田氏が在籍していることは一部では有名な話だ。

■戦術的ピリオダイゼーションとは
「戦術的ピリオダイゼーションにおけるゲームモデルという考え方は、トレーニング方法の革命だなと僕は感じています。攻撃、攻→守の切り替え、守備、守→攻の切り替えの4局面ごとにそれぞれ主原則、準原則、準々原則……と設定していって、それをタスク化してトレーニングに落とし込む。定量的な分析もゲームモデルとセットでやる。全部一体化しているんですよ。根本にある思想が大事で、例えば個別のトレーニングメニュー自体を切り取っても意味がないというか」(川端暁彦『Jリーグにも「ブーム」の兆し。欧州発のゲームモデルって何?』footballista.jp,2019年)

イタリアで早くから戦術的ピリオダイゼーションを取り入れたミハイロヴィッチのコーチ陣の1人であるデ・レオによると、ゲームモデルとは監督のメンタリティ、クラブの歴史とカルチャー、リーグの戦術的な特徴などを反映したベースをコンセプトとするものであるという。

■大本にあるのはリーグやクラブ、監督の哲学を反映した「ゲームモデル」 
出発点になるのは、クラブがどのような目標を設定しているか、そして監督がどのようなフィロソフィを持ち、どのようなサッカーを通してその目標を実現しようと考えているかということだ。その枠組みの中で、シーズンを通しての仕事を規定する最も重要なベースは「ゲームモデル」だ。その中には、チームが持つべきアイデンティティ、それを具体化するためのプレー原則、そしてそれを実現するためのコーチングメソッドが凝縮されている。 
トリノのゲームモデルには、様々な要素が反映されている。監督のメンタリティ、クラブの歴史とカルチャー、セリエAというリーグの戦術的な特徴などなど。もう少し具体的に言うと、我われの監督は受動的な姿勢を何よりも嫌っており、常にアグレッシブかつアクティブにプレーすることを要求する。トリノというクラブは伝統的に、どんな状況に置かれても常に闘争心をむき出しにして最後の最後まで力を振り絞って闘う姿勢をアイデンティティとしており、サポーターもそれをチームに強く求めている。そしてセリエAでは、何よりもボールを奪ってからできるだけ速く、相手が守備陣形を整える前に敵ゴールに迫ることが決定的な重要性を持っている。 
とすると、チームとして基本となるゲームモデルは、あえて単純化して言えば「ボールをできるだけ高い位置で回収し、すぐに前方にプレーを展開する」というものになる。そのためには、相手を待つことなく常に前に出てボールを奪いに行く、セカンドボールに強い、美しいサッカーよりも勝てるサッカーを重視する、といった特徴を備えていなければならないだろう。受動的なチームではあり得ないし、低い位置にバランスの取れた布陣を敷いて理詰めで守るような戦い方もしない。それよりもむしろ、多少のリスクを取ってでも積極的に前に出てボールを奪いに行くような、いわば「肉を切らせて骨を断つ」戦い方をするチームになるだろう。(片野道郎『戦術的ピリオダイゼーション実践編。ゲームモデルは歴史や文化も含む』footballista.jp,2018年)

なんとなくあるサッカースタイルを明確化するというのは、至上命題なことなのかもしれない。選手やクラブに媚びることなく、時には対立することのできる浦和のサポーターこそ、現状の浦和の日和見的な状態から解放できる唯一の存在とも捉えられる。

サッカースタイルに関して言及するためには、ある程度の知識が必要だが、長年サッカーを見ている人であってたら容易いことだろう。現場が見ている視点に近づくということだけでも大きな意義がある。

当然、ゲームモデルを持たないという戦略もあって、現に欧州コンペティションの上位にはジダンのレアルマドリー、アッレグリのユヴェントス、ポチェッティーノのトッテナムなど明確なゲームモデルを持たず、対戦相手研究によって出される戦術や世界最高レベルの選手のコンビネーションに委ねるチームが存在する。あのバルセロナも一部ポゼッションを放棄するなど揺らいでいるような時代だからとても難しいのは確かである。

浅野「そもそもJリーグになぜゲームモデル導入の動きがあるかと言えば、監督が代わったらサッカースタイルから何から全部変わるのはあまりに非効率で、そんなチームは継続的に勝てないからです。実際、勝ち続けている鹿島とかにはクラブ固有のスタイルがありますよね。それを作るべきという発想は正しいと思いますし、そこに言語化されたゲームモデルを導入するのも理に適っています」(川端暁彦『Jリーグにも「ブーム」の兆し。欧州発のゲームモデルって何?』footballista.jp,2019年)

◾️「ストーミング」の浦和

蛇足だが、私として浦和の文化に合うのではないかと思うものは、ストーミングである。今現在闘える選手の中にプレーメイカーはおらず、しかし球際のデュエルに強く、速い選手が揃っている現陣容に合致する。オリヴェイラ指揮下のACL北京国安戦では、図らずもそのような展開になっていた。これに関しては個人としてより考える必要があるし、より戦術論に長けた方に委ねたい。

ボール保持とプレーエリア。「主導権」の解釈
 2つを層別することを目指していく中で、重要な鍵になるのが「ボール」の存在だ。ポジショナルプレーはボール保持を前提として成り立っている概念ではないが、相手の組織を不均等にする道具としてボールポゼッションを重視する。不均等な局面を作り出すのは「即時奪回」に繋がり、ポジショナルプレーの原則から考えれば「ボールを保持し続ける」ことが理想だ。
 一方、クロップを筆頭にしたストーミングの信奉者は「ボールを失うこと」に執着しない。むしろ、次の局面でボール狩りに移行する目的で「意図的にボールを手放す」こともある。これは単なる対立軸としてのポゼッションvsプレッシングではなく、「主導権」をどのように解釈するかという価値観の差に繋がっていく。ポジショナルプレーが「ボールを保持することで自分たちの位置を整えながら優位性を生み出し、主導権を奪おうとする」のに対し、ストーミングは「意識的にボールを手放してでも、手数をかけずに狙ったスペースにボールを運ぶ」ことをゲームにおける主導権と解釈する。ボールロスト後に陣形を整えることなくそのまま襲いかかるゲーゲンプレッシングを方法論として内包しながら、「ボールを手放すことを厭わない」ゲームモデルを便宜的に「ストーミング」と定義すれば、乱立していた戦術用語が整理されるのではないだろうか。
 非常に象徴的なのが、クロップ自身の「ゲーゲンプレッシングは最高のプレーメイカーだ」という発言だ。彼らは特定のプレーメイカーを配置することで組織的にゲームを作ることに固執せず、相手陣内でのボール奪取を前提にゲームプランを構築している。(結城康平『新概念「ストーミング」考察:ボールを手放すことを厭わない概念』footballista.jp,2018年)

参考文献
レナート・バルディ、片野『モダンサッカーの教科書』ソルメディア,2018年

#コラム #サッカー #Jリーグ #スポーツ #浦和レッズ #サッカー日本代表 #サポーター論


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?