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【短編】オレンジジュース

※暴言、暴力、自傷表現があります。
※実話を元にしたお話です。


「あんたなんか死んじまえ!」
母の投げた皿が床で砕けて、破片が飛んで、私の頬を攻撃した。あまりに傷口が熱くて思わず涙を流すと、母が私を蹴った。
「あんたが泣いてどうすんの?どうせ明日になれば傷付いたわって言いふらしてまわるんでしょ?悲劇のヒロインぶってんじゃないわよ」
…私はただ、母に愛されたかっただけ。

「泣くな、煩い」
リビングの隅で泣いていた私の頬を父が叩いた。よろめいた私は本棚に後頭部をぶつけ、その拍子に絵本が足元に落ちてくる。拾おうと手を伸ばすと父に手を踏まれ、抵抗する間もなくその絵本で頭を叩かれた。
「うるせぇんだよ、ゴミが!」
「痛いよ、パパ」
震える声で抗議すると父はまた怒鳴った。
「お前は傷付いて当然だろ!なんで生きてんだよ、とっとと死ね!」
あのときの私は、どんな顔をしていたんだろう。私はただ、両親に愛されたかっただけ。

もう泣き方も忘れてしまった。

高校に入学したとき、私と親友はクラスが別れた。親友と話す機会がぐんと減り、その頃から不眠症になり、気が付いたら週に一度しか登校できなくなっていた。後から思えば、私は親友と話すことで、日頃両親にぼろぼろにされた心を無意識に癒していたのだと思う。それができなくなってから、私は弱く脆くなり、ただでさえぼろぼろの心がさらに廃れていくのを感じていた。そしてそんな状態で勉強なんざできるはずもなく、成績がどんどん落ちて、気が付けば学年の1番下から3番目の順位だった。
痛みに耐えられなくなるたび、自傷をして緩和させていた。心の中のあやふやな「負の感情」を腕に傷痕として刻んで可視化することで、少しだけ和らぐ。また、マニキュアや除光液なんかの、つんとするにおいを嗅ぐのもよくやった。におい自体は好きではないのに、頭痛がして、目眩がして、酔ったようにベッドに倒れ込んでいるのが好きだった。心の底から「何もかもどうでもいい」と思えるから。

「ため息ばっかだね。折角一緒にいるのに」
親友の声に顔を上げた。また嫌なことを思い出してしまっていた。勇気を振り絞って、下校するところだった親友を寄り道に誘ったのに。
隣の部屋から激しいシャウトが聞こえてきて、やっといま自分がどこにいるか思い出した。カラオケだ。
「歌わないの?」
「あ…今日は、そんな気分じゃなくて」
「じゃあなんでカラオケ誘ったんだよ」
親友はいつも歌わない。歌うのは私だけ。でも今日は、なんで2時間分もお金を出したのだろうと、自分でも不思議なくらい歌う気が起きない。
「なんかあったのか?いつもお前大人しめだけど、今日はやけに顕著だぞ」
親友が制服のスカートの裾を握っている。少し苛々しているときの親友の癖だ。はっきり言わなければ怒らせてしまう。
「…なんか、疲れてさ」
「疲れた?あーそうだなぁ、今日も1日授業頑張ったもんなぁ」
親友がスカートから手を離す。それに安堵しつつ言葉を繋いだ。
「もちろん授業もだけど、その…」
言おうとしてやめてしまった。こうやって弱音を吐くことも「悲劇のヒロインぶってる」ことになるのだろうか。みんなにはなんともない痛みなのだろうか?
「なんだよ。言わないとわかんないぞ」
親友の指がまたスカートの裾に触れて、私は必死で言葉を探す。つらい?かなしい?いたい?こわい?それとも。
やがて探し出した言葉を、私は絞り出すように吐いた。
「死にたい…」
親友が私の腕を掴むのと、私がポケットからカッターナイフを出すのと、どちらが速かっただろう。ほぼ同時に見えた。
「…それ、しまえよ」
親友が先に沈黙を破る。私は震える手で、腕に押し付けようとした“それ”をポケットに戻した。
「なぁ、もしかして、この左腕の傷は“それ”か?」
乱暴な口調とは裏腹に、優しい声で親友は言った。隣の部屋からはシャウトではなく、滑らかなバラードが聞こえてきた。知らない曲だ。
黙って頷くと、親友はゆっくり立ち上がる。俯いている私の視界には、親友の脚しか入ってこない。糸が張ったような空気に耐えきれず目を瞑ると、バラードの音量が急に上がって、下がった。親友が部屋を出ていったらしい。
見捨てられたのかと思った。それでも、カッターナイフをもう一度手に取りはしなかった。強く歯を食いしばって痛みに耐える。耐えるのは得意だ。それで、次親友の顔を見たときはなんでもないように笑おう。作り笑いも大得意だ。
私は傷付いて当然だから。傷を付けられて当然だから。だって、両親がそう決めたんだもの。あれが普通だ。親ってそういうものなんだろう。みんなは何食わぬ顔で生きているのに、私だけ痛がっていたら悲劇のヒロインぶってると思われるのも当然だ。

深呼吸をして、手が震えなくなった頃。知っている曲が聞こえてきた。有名なポップソングで、カラオケの王道ソングでもあると個人的に思う。その曲の音量が急に上がって、下がる。顔を上げると、親友がオレンジジュースを手に立っていた。
「お前、オレンジ好きだろ」
駄目だった。一瞬で作り笑いが崩れてしまう。泣きそうになるのを堪えて口角を上げようとしていると、親友が私の隣に座って宙に言葉を投げた。
「一緒にいるときくらい仮面外そうよ」
「…でも、そしたら」
悲劇のヒロインぶってるとか言われてしまう。
「そしたら?」
「みんなにはどうってことないのに…私は耐えられない…」
親友が聞き返した答えになってないのはわかっている。でも、仮面を外すと止まらなかった。
「ママやパパには叩かれたり蹴られたりするの当たり前なのに、私はつらいし、だけどみんなは…」
「ちょっと待ってよ。そもそも前提からおかしいよ」
親友が珍しく声を荒げた。
「いいか?一般的な親は叩いたり蹴ったりしねえから。そりゃあ軽くはあるかもしれんが、当たり前じゃない、絶対。お前はむしろ、傷付いてんだから痛がるべきだろ。なに作り笑いしてるんだよ」
「で、でも、私は傷付いて当然だって言われるよ。痛いって言ってパパを怒らせたもん…」
「わたしはお前の親じゃねえ。わたしの前でまで痛いの隠すなよ…!」
親友は私のほうを見ない。目が合うと私が作り笑いをすることを知っているのだろう。
「でも、怒らない…?」
「なんで怒らなきゃいけないの?わたしは今お前が我慢してることに対して怒りたいよ」
隣から聞こえる曲が、今度は重低音がメインのものになった。ズーン、ズーンと壁が震えている。心臓の音みたいだ。
「じゃあ、私は痛いの我慢しなくていいの?」
「当然でしょ」
「泣いたって、助けを求めたって、いいの?」
親友の言うことが本当なら、私はつらいと叫んでも許されることになる。痛いと言っても、怖いと思っても。長い間信じてきた常識が壊れようとしていた。正直不安でしかなかった。
だけど両親と親友なら、ずっと親友のほうが信頼できる。だから私は、親友の手をぎゅっと握って答えを待った。
「当たり前だよ…!」

あのとき母に叩かれたことも。
あのとき父に踏まれたことも。
大切な物を壊されたことも。
死ねと言われたことも、ゴミと言われたことも。
「本当はぜんぶ痛かった…」
いつから我慢していたんだろう?決壊したダムのように、忘れていた泣き方をカラダが思い出す。泣き崩れる私の横で、親友はきっとまだ宙を見つめている。
「もう嫌なの、ずっと自分のせいにして、腕も切って、また怒鳴られて、疲れた…」
「お疲れさま」
たった一言、されど一言。彼女はそこで初めて、私の顔を覗き込む。
「オレンジジュース、飲むか?」
目尻は下がり、口角は上がる。これが本当の笑顔なんだろう。忘れていたのは泣き方だけじゃなかった。
「のむ…」
親友は笑ってコップを差し出す。が、次の瞬間彼女は少し困った顔をした。
「わたし、一口飲んじゃったけど、いい?」
なあんだ、そんなことか。
「間接キスだ。なんてね」
笑ってそれを受け取って一気に飲んだ。親友の目元が緩く弧を描く。
「笑えるじゃん」
「ジュースのおかげかなぁ」
「そこは、わたしって言えよ」
彼女は冗談混じりに言って、私に抱きついてくる。甘い香りがふわっと広がる。

「ところでさ…、カラオケって、壁薄いよね」
「それな?」
「私らの声も聞こえてたりして」
「聞こえててもいいじゃん。きっと友情アツすぎて泣かれちゃうよ」
まるでその通りだと言わんばかりに、残り5分の電話が鳴った。歌わないくせに、当たり前のように延長をお願いする彼女と、私はずっと親友でいたい。
「まだ歌ってもらってないからな!」
振り返ってドヤ顔をする彼女に、私はすまし顔でコップを押し付けてみる。

「オレンジジュース、お願い」

宜しければ。