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生きていることに気がつく。

「亡くなったことに気づかずにまだ彷徨っています」

画面の向こうの霊能力者が苦悶の表情で言った。女性アイドルや芸人が「え〜!」とか「キャー」とか言った後、霊能力者はその霊の人生について話しはじめた。

「亡くなったことに気がつかない」という話はオカルト話ではよく耳にする。不本意だったとか急だったとか自らだったとか理由は色々あるらしいのだが、自分の置かれた(置いた)状況を自分のことだからという理由で認識しづらいのは、生きている人もそうでない人もそう変わらないんだなと思った。

「亡くなったことに気がつかない」
事態があるとすれば、
「生きていることに気がつかない」
状態もありうるのだろうか。

スピリチュアルなことには詳しくない。
でもよくある疑問。(恥ずかしめ)
「生(セイ)」とはなんぞや。
「定義とは?」なんてあんまり言いたくないけれど。
心臓が動いているとか脳が機能しているとか、それぞれの業界で、あるいは各々の中に、様々な生があり、死がある。
まぁ、死亡届が出されれば社会的には死だし、出生届が出されたら生なのだけれど。

「亡くなったことに気がつかない」のは周りの環境が生前と大きく変化しないから?
「生きていることに気がつかない」ことはもしかしてあまり存在しない?気がついたら環境が変わっている。
もしかして、亡くなるの対義語は生まれる、かな。
生まれたときの記憶って全然ない。何故。

肉体と精神の成長過程で思うこと。(いわゆる中二病とでもいうのだろうか。)
自分以外は存在しないのでは?
自分以外はハリボテで、見ていないところでは何も存在していないのでは?
自分という存在を通して第三者がゲームを楽しんでいるのでは?
環世界、独我論、生の認識は複雑だ。
夢の中だって痛みは感じる(ような気がする)
考えすぎると息の仕方とか瞬きの仕方を忘れてしまう。

夜、歩いていると酔っ払って寝ている人がいる。じっと見て、お腹が上下しているのを確認する。とりあえず、生きているんだと思っておく。

自分の認識、他人の発言、自分の問題、他人の問題、境界があまりにも曖昧だし、様々を認識するのに自分の脳は低スペックすぎるのだなぁ。残念。

めちゃめちゃ賢い人ってかなり存在する。
IQが離れすぎていると会話が成立しないらしい。言語が同一でも意思疎通ができないなんて難しすぎる。厳しめのバベルの塔だな。
言語を介さず脳自体をペアリングできたら便利ま...かな...?

社会という枠組みの中で、生きて死ぬ。
社会がなくても、社会という認識がない時代でも人は生きて死ぬ(はず)。
社会はあまりにも強い。そして大きい。
社会という概念以前にも生があったであろうことをたびたび忘れる。

概念になりたいとツイートする人、なんか面白い。

なんだか、あらゆることに全然気がついてない気がしてきた。







サポートの分だけ強くなりたい。 アスファルトに根を張る大根のように。