見出し画像

結局学校とは何なんだろう〜学校の働き方改革

結局学校とは何なんだろう

娘が学校に通わなくなりこの問題を考えるようになった。

それまでは学校はとりあえず行かなければならないところで社会性を身につける場所と一般的な考えを持っていた。

しかし、いざ娘が学校に病気で通えなくなりその後体調が良くならないからというだけでなく自分の意志で通わないことを決めた状況になってみるといろいろな事が見えてきた。

つまりは、学校とは大半の人にとって将来企業の歯車になることを疑問に思ったりしないように育て上げる場所として機能しているようにも思える。周りと合わせることを学び、周りと同じことで安心感すら覚える。自分の考えで動くのではなく権力を持った人の指示通りに自分の考えは押し殺して動く。

ただ、こういう歯車的な人は右肩上がりの経済成長の時期には必要とされたが、現在のようにアイデアや実力を必要とされるようになってくると全く不必要となる。社会では個性や実力を求められ自分で正しい判断ができる人材を求められているのに学校では未だに過去の慣例から抜け出せずこれまでと何ら変わらず時代遅れのままの学校が多いように思える。

近頃小学校に入学する前までに発達障害だと言われる子を知り合いの中でも何人も知っている。どの子を見ても10年前20年前ならそんなことを言われなかっただろう。人と話すのが苦手。ジッと座っているのが苦手。逆に一つのことにこだわりすぎる。我々大人をみてみると現在のその判定なら8割くらいが発達障害と言われるのではないか。みんな仕事だから何とかやっていたり、自分の特性を生かせる仕事に就いて何とかやっているだけ。そんなことを考えず生きている人は余程の能天気な性格の持ち主に違いない。

家庭で個性を重視して育てても学校で横並びを強要されては自分の価値観を形成する時期に不安定になりストレスを感じる。

学校関係者の方々も多様な価値観を認めることを学び、同調圧力をなくす努力をしてもらいたい。またその為には学校でどのようにすれば良いかを真剣に考える時期だと思う。

ランドセルが教科書で重すぎるとか欠席連絡にLINEを使うとかそんなことですらこの時代に即時にどう対応するか決められない時点で終わっている。海外では一人一人がiPadを持ち学校に着いたらログインして教科書もノートも連絡も全てそれで完結している国もある。日本はいろいろな利権も絡んでいるのか教科書もなくなることはないだろう。

学校の働き方改革

最近学校でも働き方改革がいわれているようでtwitterなどでも様々な意見を見かけます。私は学校関係者ではありませんが、起立性調節障害の子を持つ親として対応をお願いしたり相談していく中で先生や学校しいては日本の教育のあり方に疑問を感じた一人の人として意見を書かせてもらいたいと思います。

まず先生達の残業、ブラック部活などの問題を語る前に現在の先生の仕事の分担を行うと良いと思います。授業、学級運営、クラブ、メンタルケア、それぞれの専門家がすれば良いのではないでしょうか。

授業はネットによる映像授業。先生はその進み具合や理解できないところを補う。学級運営やメンタルケアはカウンセラー。クラブはその専門家による指導あるいは地区の活動に参加。自分に合った地域のクラブチームやボランティア団体などで放課後活動すれば良いのではないか。

それくらい改革しないと日本の教育は変えられないと思う。

先生の本来の業務は勉強を教えることでは?

先生の本来の業務は子供に勉強を教えることではないのか。今の先生は学校行事やクラブ活動、成績評価や雑務に追われて本来の業務が疎かになってしまっているように思う。

私の経験したことで参考にしてもらいたい出来事があります。子どもが学校へ行けなくなりとにかく先生にはまず学習する場や機会をどうするか取り組んでもらいたいのに、それはないがしろにされたままで卒業アルバムにどうしても載ってもらわないとと写真を撮る方法をいろいろ考えてきてくれた。おそらく娘は写真を撮りに学校へ行くことはないし、写真を撮って渡すこともないだろうと丁重にお伝えした。すると先生は、それをすんなり受け入れはできないので何か方法を考えますとおっしゃった。その場はそれでとりあえず終わったが、何か間違えてはいないか。

これまで学習する場を考えてもらいたいという学生の基本的な部分についての相談は適当に扱われて大した案も持って来なかったくせに、外部からの目、見せかけだけの人数合わせの方法は全力で考える。卒業アルバムはそんなに大切か?不登校の子どもにとっては苦痛以外何ものでもない。そんなことに一生懸命時間を費やす前に学校へ行きたくても行けない子どもの学習する場をどうするかしっかり全教育委員会をあげて即座に考えてもらいたい。組織としておかしいのではないか。

いろいろ考えると卒業アルバムに載ることは何と言われようがやはり全力で阻止しようと思った。

メンタルケアとは?

娘は起立性調節障害で学校に遅刻して通っていた。それに対してクラスの一部の人から心ない言葉をかけられ、教室に入れなくなりました。その子達は何も注意されることもなく何もなかったように学校へ通い授業を受け、うちの子は不登校で学習の機会すら与えられず。なんだか腑に落ちない。

外国の学校では心無い言葉を発した子どもにカウンセラーがつきどうしてそんな言葉を発したかを問題にすると聞いた。そしてその子こそ別室へ登校させ人を傷つける言葉を言わないよう指導を受けるそうだ。それを小さい頃から経験していると当事者でない周りの子たちもそんな言葉を発するのは心が荒れているからだと思うだろうし、弱い者いじめのない優しい世の中になる気がする。

そういう点で日本の考え方は見直す必要がある。日本では長い物に巻かれる、出る杭は打たれるというように周りに合わせて生きることが正しいという考えがある。そしてこれまでの日本ではその方が楽に生きていけたのであろう。

昔はそれで良かったけれど、今の時代それではうまくいかないということが最近あらゆる場面で見受けられる。教育現場もその一つではないか。ゆとりとか個性とか多様性を重視と言いながら、先生達自身が同調圧力、協調性を重視する考えを捨てきれていない方が多い。そして変化に対応する体制が全く出来ていない。

だから、自分の子が不登校になって知れば知るほど負け惜しみでなく、現在の学校になんの疑問もなく通っている子の方が大人になったら危険な気がしてならない。

これを読んでいただいた方のお子様がもし学校へ行きたくないと言いだしたら、頭ごなしに行かせようとするのではなくちょっと思い出してもらいたい。むしろ学校へ行くことに疑問を持てたことが素晴らしい

学校でのクラブ活動は必要か?

私自身中学生から大学時代それほど強くはないけれど大会を目指して頑張る運動部に所属し、クラブ活動は仲間との貴重な経験をさせてもらえるメリットもあることは十分承知した上でここでは不登校の子どもを持つ現在の私の意見を書きたい。

まず今の時代に学校でのクラブ活動は本当に必要なのだろうか。

積極的にやりたい子はそれでいいが、それほどやりたくもないけれど内申書の為にやっている子がいると聞く。前回のnote にも書きましたが、ここでもまた内申書の問題が絡んでくるのだ。貴重な時間を子どもにはやりたくもないクラブ活動で人からの評価を得るために頑張るといったそんな無駄な時間を過ごしてほしくない。それよりは本当に自分のやりたい事を見つけそれに時間を費やしてもらいたい。

クラブはその専門家による指導あるいは地区の活動に参加。自分に合った地域のクラブチームやボランティア団体などで放課後活動とした方がよい。
専門的知識もない顧問の先生に担当させるよりは専門家に任せた方が先生も本業に専念できるし、やる生徒も上達するのではないか。

そして学校とクラブ活動が全く異なる場所、コミュニティであれば、クラブ活動でトラブルがあったからと言って学校まで休み不登校になるといったことも少なくなるのではないだろうか。子ども時代からいろいろなコミュニティに所属することは大切で、一つのコミュニティで問題があってももう一つのコミュニティで相談したりできる。そういう場があれば生きやすいのではないでしょうか。

まとめ

日本は様々な場面で欧米の良さそうな所だけを取り入れるから全体的にみたらチグハグになっていることを近頃いろいろな場面でよく目にする。そろそろいろいろ抜本的に見直さないとおかしなことになってきているように感じる。

学校は戦後からほとんど同じ体制で毎年繰り返し同じことが行われてきた。

だから昭和も随分前に終わり平成も終わろうとしている今学校ではまだ昭和初期のようなことがおこなわれていることをよく見ます。連絡手段一つ取ってもネットやメールなど活用できるものは全て活用すればよいと思う。世界に通用できるように子ども達を教育してもらいたい。そしてこれからの社会の変化に対応して流動的にルールが変えられるようにしないといけない。そうしないと世界から取り残された日本になってしまうのではないでしょうか。いや、もう取り残されているのか。危機感を持って早急に考えないといけない時期だろう。

ご支援いただければ嬉しいです。何らかの理由で学校に行けず困っている子どもたちやその周りの人と繋がり、自由に生きてよいし、何度でもやり直せるということを広めていきたい。