見出し画像

原点を探して ちょっと長い自己紹介

どうしても書き残しておきたかった自分の失敗談。
次に向かうために必要なステップに思えたし、これを書くことで、誰か他の人のためになるなら。同じような失敗をして欲しくないので。

会社人生の始まり

会社に入ってからのこと。配属されたのは入社時の希望と違って、生産技術という部署でした。私が勤めていたのは某大手電機メーカー。入社して間もないころ、グローバル化の波が押し寄せてきていた。

入社して、私の教育担当についた先輩はとても変わった人だった。就業のコアタイム内に出社してくることは稀で、コアタイムが終わる頃に会社にやってきて、翌朝まで仕事している人でした。すれ違いばかりで、業務連絡は置手紙でした。そんな状態だったので、業務について教育を受ける機会もなく、暗中模索、とにかく周りの人に聞きながら、置手紙で指示された仕事をこなしていく毎日が続いていました。

転機がやってくる

入社して1年も立たない頃に、会社の海外進出計画が明らかになり、その推進役が私の部署でした。職場の雰囲気も海外進出一色。そんな影響もあってか、小さいながらも、海外赴任できるようになりたいとの目標を持つようになりました。

入社2年目の私にも東南アジア生産担当との役が回ってきました。VTRのメカモジュールをタイとシンガポールで生産して、それを国内の自社工場に納入するまでのサプライチェーンの構築が役目でした。
国内工場への納入も始まり、プロジェクトの説明やフォローアップで何度か国内工場に通うようになりました。入社時に大した教育も受けていなかったことも影響したのか、現場の人たちからはこっぴどくやられました。
国内工場を守る人たちからすれば、元々海外進出けしからんとの意見が多かったので、仕方ないことであったのですが。でも、色々なことを学ぶきっかけとなりました。

海外進出の嵐も通り過ぎて、しばらくしたある日、人事異動があり、入社した時の課長が国内工場に栄転、代わりに国内工場から新しい部長代理兼課長がやってきました。国内工場に通ったときにお会いしていた一人でした。その人が上長となってから、職場の雰囲気は一変、常に、「とは」を問われるようになり、仕事の経験も浅く、知識の薄かった私はかなり厳しく指導を受けることになりました。ここで初めて「仕事」について学び、「仕事とは」を意識するようになりました。

そんなある日、技術解析で45℃の恒温槽に徹夜でこもり、大汗をかきながら、ふと、『なんで、こんなことをやっているのだろう』との疑問がわきました。そして、このことがきっかけで、この先、自分の意志で色いろな職種や仕事にチャレンジしていくことになっていきました。

仕事が楽しくなる

上長が変わったことで、明らかに変化が起きていました。
それまでは大きな会社の小さな歯車だったのですが、俄然仕事が楽しくなり、学びながら経験を積んでいく時間になり、人間関係も大幅に拡大していきました。

最初の海外出張から3年くらい経ったころ、またもグローバル化の波が押し寄せてきました。前回は言われるままに一担当としての仕事でしたが、今回は自ら手上げて担当ポジションを取りにいきました。
怒涛のような日々、1年の半分をマレーシア ジョホールバルで過ごす2拠点生活の始まりとなりました。パソコンの周辺機器が商品でしたが、パソコンが急激に普及し始めた時期で、とにかく作っても作っても売れる時でした。
ジョホールでの仕事を始めてから1年経つか経たないとき、後輩の仕事のヘルプでシンガポールにも通うになり、いつしかシンガポールでの仕事がメインになっていました。シンガポールとジョホールバルを行き来するようになり、シンガポール移民局に捕まる羽目になりましたが、とにかく楽しい時期でした。

小さな目標が叶う日

海外との2拠点生活を3~4年続けた後、3年ほど日本中心の生活に戻りました。とは言え、定期的にシンガポールやマレーシアを訪問、また、この他にも韓国や中国にも足を運ぶようになり、知見を広げることができる時期でした。また、部下を5~6名抱えるようにもなっていました。
そんな頃、海外でのオペレーションが上手く回らない、誰か駐在員1名を赴任させて欲しいとのリクエストが海外の責任者から届き、私が赴任することになりました。手上げた訳でなく、今回は今までの実績が評価されてのことでした。入社して間もないころに描いた小さな目標が叶った日でもありました。

最初に赴任したのマレーシアペナン。現地の問題を半年ほどで解決して、シンガポールに新しくオフィスを開くことにしました。スタッフも徐々に増やし、最初はマレーシアとシンガポールであった活動範囲を、中国天津・大連、香港、インドネシア、タイ、フィリピン、ベトナムに拡大していきました。他事業部とのコラボも実現して、すべてが順調でした。できなかったことはヤマト運輸とのコラボでやろうとしたサプライチェーン全体の見直しくらい(これは壮大なテーマ過ぎた)で、必ず結果がついてきて、ほんとうに楽しい日々でした。

悶々とする日々が続く

マレーシアとシンガポールでの生活が6年ほど続いたのち、日本に帰任することになりました。その頃には事業が一時の勢いを失いかけていたので、競合と合弁会社を作ることになり、その準備に駆り出されるようになりました。それに合わすような帰任でした。しかし、思わぬところに躓きの石があり、状況が一変、10年以上におよぶ苦しい日々が続くことになりました。
シンガポールオフィスの存続で経営陣と対立し、それに加えて、つまらぬ事件に巻き込まれたことで、会社での信用を失うことになってしまいました。

小さな光、きっかけ

左遷の憂き目にあい、チャンスをうまく活かせず、なかなか浮上のきっかけを掴めずにいました。
そんな時に、あの激しい揺れが襲ってきました。東日本大震災です。
そして、そのあとの福島第一原発での事故はとてもショッキングのことでした。また、追い打ちをかけるように、タイでは大洪水が発生しました。
サプライチェーンが寸断され、グローバルバリューチェーンにも危機が生じました。でも、その時は何もできずに手をこまねいていました。

ある日、私はいわき市を訪問することになりました。
東日本大震災で被災され、タイに生産を全面に移管したら、そこで洪水の被害にあった企業を見に行くためでした。

まだ、大震災の爪痕が残る工場に、タイから生産を少しずつ戻して、生産を開始した直後のときです。いわきで人を確保することがままならず、タイ工場の人が応援に来てもらっている状態でした。その会社の役員から色々と話を聞かせて頂くことができました。

震災直後、人が集まらず、やむなく生産をタイに全面移管したこと。そして、それによる地元いわきの反応。タイから生産も戻したときの反応など。
被災現場に行かないとわからない現実がそこにありました。何もできずにいる自分が恥ずかしかったし、何か今までとは違う感情が沸き立つのを感じていました。

起業へ

ひとつの商品事業の寿命は20~30年といわれます。携わってきたパソコン周辺機器事業も20年強の時間が経過しており、そろそろその役目を終えるときが近づいていました。事業部解散です。30代以下の社員を除いて、事業部長を筆頭に多くの社員が早期退職の対象になりました。

2年あまりの準備を経て、起業することにしました。ワイヤレス技術をコアにした事業展開を考えていました。紆余曲折はあったものの、順調に滑り出したかと思っていました。

ワイヤレス技術を起業テーマに選んだのは、やはり東日本大震災の影響が大きかったです。防災に強い街、脱原発→再生可能エネルギー、ソーシャルビジネスなどをキーワードにしていました。その発展形としてのスマートシティ、環境問題、そういうことに関係していく会社したいと思っていました。
また、一連の災害で、サプライチェーンの寸断を目の当たりにしていたので、バリューチェーン、サプライチェーンのことも気にしていました。

色々な目的をもって、まずはワイヤレス技術を使った商品を作ることにしました。開発・製造のパートナ企業を起業前から選定して要素開発に着手していたので、起業の半年後には商品を販売できることができました。初期の広報活動もうまくいき、マスメディア取材もそれなりに多く、順調に販売が伸びるのではと思いました。が、それは束の間の出来事でした。
そこから本当の生みの苦しみが始まりました。

2度めの挫折

ビジネスにおける試練や問題はつきもの。何かを成し遂げるための通過地点と思い、マスコミ効果の後の販売不振問題の解決に動くことにしました。マスコミに露出していたことが、その後の活動にプラスには働いてくれることになりました。

時間がかかってしまいましたが、一定のことをやれば、結果はついてくるもので、販売は回復しました。ただ、時間がかかり過ぎたことが問題でした。
時間がかかったことで、財務状況がひっ迫してきました。新たな出資者を募る、または、銀行融資に頼ることになるわけですが、ここで問題がありました。

お金を集めるには、創造性ある企画書、実行性ある事業計画が必要になります。企画書にしろ、事業計画にしろ、作ることはさほど難しいことではありませんでした。何故なら、やりたいことははっきりしていたし、やるべきこともわかっていたので。もっと極端な言い方をすれば、こういう風にすれば、VCや銀行からお金を手に入れることもできる。VCや銀行の人たちと会い、会話していたので、彼らが何を求めているかは分かっていました。

しかし、できなかった。大見得をきることもできましたが、そうしませんでした。その時、気にしたのは実行性です。5人でスタートした会社でしたので社員がいましたが、会社を起こしてからの彼らのパフォーマンスを考えると、数字を小さくせざるを得ませんでした。数字を小さくしてしまえば、誰も相手にしてくれません。このとき、判断と勇気が求められていました。
ガラガラポンをする勇気を。そして、もうひとつ。足を引っ張ていた株主の処置のこと。

葛藤、教訓

悩みましたが、結局、株主を含め、人を切ることができませんでした。
信用してあげたかった。ただ、それだけのことでした。
甘いと言われても仕方ないことです。結果、待っていたのは挫折でした。

もうできない、無理と思う瞬間もあったし、いや、まだできるはずだとの考えが交互に訪れ、葛藤するばかりの時間。しかし、時間は無慈悲、その時は何も解決してくれませんでした。まさに、「時は金なり」。貴重な時間とお金を失うことになりました。
挫折の代償は非常に大きなものになってしまいました。

この失敗で得ることができたのは教訓だけです。それは、「人選」、「勇気・豪胆」、「合理的な判断」ということです。今までの経験から、本質的なところで協力できる能力というものが人にはあると信じていましたが、残念なことにそうでない人もいるということを痛感しました。

『経営とは、ふさわしい人材を選ぶこと。そして、優先順位を間違えないことだ』 (なぜ真のリーダーがいないのか リー・アイアコッカ)


そして、もうひとつ教訓として加えるなら、楽観的な考え方。積極性やポジティブに近いのですが、”できる”という信念のようなものです。

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ (論語 学而第一 八)


神さまはこんなに辛い経験をさせるのかと思いますが、その反面、不思議なことに、まだやれるとの自信というか、楽観性を与えてくれているようです。

やり残したこと、そして、これから

会社を興して、ひとつの商品を売ることはできましたが、それ以外はすべてが未完のままで、やりきったという満足感がまるでありません。
元手となる大切お金を失ってしまったことはとても辛いことですが、まだできるという気持ちがあるので、この先も諦めずにチャレンジを続けていくつもりです。

起こした会社でやりたくてもできなかったこと、やり残したことがたくさんあるので、それをひとつずつ形を変えてやっていこうかと思っています。

まだ未踏の真理の大きな海がそこにあるのに、自分は海辺で貝殻を拾っていただけだ (アイザック・ニュートン)


仕事をやって楽しいと思えたのは、いつも仲間たちと一緒にやりきったという満足を得られる時でした。今もそれを求める気持ちに変化はありません。

雄々しき依存と雄々しき自立、雄々しき依頼心と雄々しき独立心
この二者はお互いに矛盾するように見えるが、どちらも必要なのだ。
(ワーズワス)

あの日、いわきで考えていたのは再興ということでした。再び興す、単に再び勢いを取り戻すのではなく、新味を加えて新たに作り変えて、勢いを取り戻す。

これこそ、アップサイクルですしね。


最後までお読みいただきありがとうございます。

この記事が参加している募集

自己紹介

サステナビリティ活動に活用します! ありがとうございます。