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連載 ボクっ娘のなれの果て、還暦を迎える。第6回:編集者になる方法

こんにちは。還暦リーチの小説家・魚住陽向(うおずみ・ひなた)です。
のっけからなんですが、美少年系アイドルはたいていお姉さん(もしくは親戚や友達のお姉さん)が本人にはナイショで事務所に履歴書を送っていたことがデビューのきっかけというのが定説ですが、それ以外ではモデルや女優は原宿で「スカウト」が有名な「きっかけ事由」です。

さぁ、それではここで問題です。
Q:私はどうやって編集者になったでしょう。以下の4つから選びなさい。
①大学を卒業して、学閥のコネで出版社に入社
②専門学校で編集を学び、就活した
③出版社の中途採用試験に合格した
④スカウトされた

時は1980年代前半。デザイン系専門学校を卒業できたはいいが、アニメ業界に進むことは選ばず、女性の就職・転職希望者向け求人情報誌「とらばーゆ」で見つけた銀座8丁目にある社員15名程度の小さな広告代理店に新卒で入社する。リクルート(孫請け)の求人雑誌掲載の求人を取ってくる外回りの営業職。慣れないこと尽くしの約1年間。あの日突然、その会社が倒産。そこから転職グセがついてしまったように思う。

ある日、友達のマンガ家の木村晃子(きむらてるこ)と一緒に(今でも仲良し)四谷三丁目の居酒屋で呑んで騒いでいたら、隣のテーブル席のおじさんたちにウケて、「おまえ、面白いから明日からうちの会社に来い!」と誘われて翌日から行った会社が編集プロダクションだった。

はい、突然ですがココで先ほどの問題。答えは④です!
③だと思った人、惜しかったですね〜(笑)。

そう! 私は偶然スカウトされて編集者になったのです。

元々、編集者になりたくて上京したわけではないし、子どもの頃から本ばかり読んでいたが「編集者が具体的には何をやる人なのか」まったくわからなかった。マンガに出てくる「原稿を取りに来たり、催促したりする人」ぐらいの認識。

それが、椎名誠の著書にハマり、編集者がどんどん身近な職業に思えてくる。椎名誠ファンにとっても四谷三丁目は聖地だった。

誘われて行った会社は、編集プロダクションであり、他にもマーケティングリサーチ、分析など行っていた。当時32〜3歳の男性10名ほどで、大手出版社の編集者やデザイナーが独立して設立。ベンチャー企業の先駆けだった。雑居ビルの2階は編集、3階はデザイナーとイラストレーター(有名なイラストレーターが場所借り)がいた。

私はこの人(後にマーケティングの世界で有名になる)に誘われて編集者になった!

その会社在籍中に22歳になったのを記憶している。ようやく人と明るく喋られるようになってきた時期だった。でも、まだ男の人と話すのは苦手。目を見て話せない。男の人なんてすぐに怒鳴ったり殴ったりするから怖かった。実はずっとおびえていた。

スカウトされた時は酔っ払っていた。きっと私のことを明るい元気な若者と思ったのだろう。当てが外れているに違いない。酔いが冷めて人見知りが発動する毎日。電話に出るのさえ苦手。電話をかける時は、こっそり喋る文言を書いて、その「シナリオ」を読んでいた(笑)。
私は全然仕事ができないダメな人間だった。何も教えてはもらえない。必死でマネしようとした。仕事の仕方は自分で毎日工夫していた。そして、何かで怒られたら無言で睨み返していた。

原稿は手書きの時代だ。インターネットもメールもない。ワープロやファクシミリはあっただろうがあまり普及はしていなかった。だから、原稿は受け取りに行く。郵送だと時間がかかる。バイク便は高額なイメージだった。そういえば留守電もまだあまり普及していなかった。男女雇用機会均等法が試行されるちょっと前。でも、施行されても「何か変わったかな?」って感じだ。

それに令和の現在ではちょっと信じてもらえないぐらい「労働の仕方がラフ」だった。
私は名前ではなく「ねーちゃん」(関西弁イントネーション)と呼ばれていた。いい大人が毎日、男同士でフェイントをついて、相手の急所を(服の上から)触り合うガキのようなことをしていた。その人ら、30歳超えてて、家庭持ってんだぜ。私にもその被害が及んで、服の上からだが、胸や下腹部を触られて、その度にキャーキャー抵抗していた。会社でみんなで徹夜した時は、明け方になるとエロ本を脇に抱えて「ちょっとヌいてくる」と言い、トイレに行く社長。今思い出しても「アホやなぁ」って思う。

でも、憎めなかったし、何より仕事のセンスは抜群だった。
当時、コンビニの数は圧倒的に少なく、急激に増えている最中だったが、コンビニだけで販売する情報誌を創刊した。その取材で、経費を浮かせるために数台のクルマで大阪に社員全員で行き、宿泊費節約のために車中泊もした。夜の飛田新地(とびたしんち)をゲリラ取材した。写真を撮っては「逃げろ!」と言って走り出す。当時の天王寺公園にはやばいおっちゃんがフラフラといっぱいいて、地面には注射器が落ちていた。社長に「離れるなよ」と言われ、服の端を掴んでいた。

「公衆電話ボックスに貼ってある名刺大のエロ広告を全部集めてこい!」と言われたこともあった。山手線各駅すべて途中下車し、女の子が一人で小さなエロ広告をはがして集めている姿って一体……(各駅ごとにエロ広告の傾向が違うことが分かる。微妙にサイズやデザインにも違いが出るのが興味深かった)。
でも、そこで鍛えられて、約10年後にフリーライターとして仕事をした週刊誌「SPA!」のネタに全然抵抗がなくなる。そんなところで活かされるとは当時は全く思わなかった。

その後、90年代に入ると出版業界はガラッと変わっていった。仕事の仕方も編集者自体の性質も。大手出版社の編集者は外注に丸投げし、編集しないことが多くなった。採用される新卒社員たちも羊のようにおとなしいエリートたちだ。どんどんおじさん編集者たちの居場所はなくなっていく。大声を出したり、無頼派の編集者なんてもういない。編集部にいる時以外は新宿ゴールデン街で飲んだくれてるとか、もう史実になりつつある。煙草の煙がもうもうとしている編集部なんて阿片窟ぐらいあり得なくなってきた。

私は出版業界の「最後のサムライたち」に仕事を教わったのかもしれない(正確にいうと教わってないけど)。

当時は編集者なんて憧れて就いた職業でもないし、すぐに辞めるつもりでいた。世の中はバブルの自覚はないまま浮かれていて、バブル恩恵は受けていないけど、浮かれ気分だけ伝染して、外国で生活したいという夢もあった。

その会社には1年か2年か…その程度しか在籍していない。でも、とても濃い期間だった。
そしてその後、辞めたつもりでいた編集の仕事をやり続けることになる。辞めて全然違う業界で働いたこともあった。でも、すぐにまた、いつの間にか出版業界の片隅に戻る。編集者は「創刊と休刊の狭間」で生きている。作っていた雑誌が休刊(廃刊)になったきっかけでまた転職する。でも再び、違う雑誌を作り始める。私はコレを「活字の神様に呼び戻される」と称していた。そして気がつけば編集の仕事を始めてから35年以上経っていたのだ。

あの頃、京王線の明大前、線路脇の風呂なしアパートに住んでいた。電車が通るたびに揺れる。音がうるさい。仕事で遅くなって銭湯に間に合わない日はコインシャワーに行った。FENを聴いていた。明大前の駅前にあった貸しレコード屋で洋楽のレコードを借りてカセットテープにダビングして聴いていた。『ザ・ポッパーズMTV』を観て、U2やSade、プロパガンダ、デペッシュ・モード、ピーター・ガブリエルを好きになったこと。2層式洗濯機を初めて買えて、もうコインランドリーに行かなくてすむと嬉しかったこと。夜道で変質者に遭って、殴り合いになったこと。マンガ家の友人たちの仕事をよく手伝いに行っていたこと。まだ「何かになれる」と思い込んでいた頃。

『ザ・ポッパーズMTV』(TBS)は、1984年4月から1987年9月までTBS系列で放送された深夜の人気音楽番組。いわゆるヒットチャート番組とは全く違う、ピーター・バラカンならではの選曲で、毎週沢山の音楽ファンを楽しませてくれた名プログラム。

Depeche Mode「People Are People」(Official Video)

最近はもう編集者の仕事の仕方なんて全然変わってしまった。年々、変わっていって、もうついていけてない。いや、ずっと時代の波に飲み込まれないように、振り落とされないように、必死にしがみついて、その都度たくさんのことを勉強して憶えてきたつもりだ。同世代の女性の中では新しいことに詳しい方らしい。必要に応じてそうなってきただけだが。

来年はもう還暦だ。現場にいるのもしんどくなってきた。
でも、小説書きとしては、まだ出版業界の片隅に居たい。
やはり、活字の神様はまだ私を離してくれないのかもしれない。

―348日:還暦カウント

Sade「Smooth Operator」(Official Music Video)


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