バイバイ、セーラームーン。ハロー、リカちゃん。
かわいい、ということばに、わたしは過敏に反応してしまう。それは、(めったにないけれど)自身に掛けられることばのときもあるし、もの・ことに対してもだ。
誰しも、自分自身のことを俯瞰して見つめている「もうひとりの自分」がいるものだろう。(と、わたしは思っている)その存在の影響力が、わたしの場合はとてつもなく、強い。
たとえば、自分のリアクションや発言に対して、客観的に「あ、これはかわいいやつかもしれない」と思ってしまうと、途端にそうしたリアクションや発言ができなくなってしまう。結果、「女っぽさ」をひた隠しにしたような対応を選ぶことが多い。
服装こそ、「これが着たいなあ」と思うものを選べるようになったけれど、それでも「これは……女性っぽすぎるのではないのかな」と、外野という名のわたしの声がうるさいことは、今でも変わらない。
「これは女子っぽいよね」と自分の中でジャッジされたものは、本当は好きであろうとも、「これ、好き!!」と言えない自分がいる。わたしは間違いなく女子なのだから、誰にも遠慮することなく「好き」だと言えばいいだけなのに、だ。
こうした理由と繋がっているのだけれど、わたしは甘えることも苦手だ。「もうひとりのわたし」が「それはかわいいリアクションだと思う」と囁いてしまうと、あえて「かわいげのない」反応を咄嗟にしてしまう。こう書いていても、面倒くさい女だな……と思う。
自分自身で、「かわいげがない女だなあ」と自覚はしている。「かわいいね」と言われる女子のことを「羨ましいなあ」と思うことも多い。(見た目だけではなく、醸し出す雰囲気がかわいらしい子に憧れる)
「かわいげがほしい」と実際に言うこともある。この発言がすでにもう「かわいげがない」と思うのだけれど、どうしても「もうひとりのわたし」はわたしのことを「かわいげがない」位置に貶めておきたいらしい。
なんでだろう、と思っていた。
長女だから、というただそれだけの理由なんだろうか。それとも、ただ単に、わたしの性格の問題なのだろうか。そう、思っていた。
そこに最近、ひとつ差し出された答えがある。セーラームーンだ。
1987年生まれのわたしにとって、セーラームーンのアニメは世代ど真ん中だ。もちろんわたしも大好きで、アニメも見ていたし、カードダスも大量に買ってもらった。(今でも実家にファイリングして保管されている。貴重なものが混じっていたりするんだろうか)入学したときに買ってもらった学習机のデスクマットや座布団もセーラームーンだった。
わたしの中で、セーラームーンは「女子が好きなもの」だった。セーラームーンを好きだと思う自分のことを、子供心に「女の子」だと感じていたのだろうと思う。
小学校二年生のことだ。家に、妹の友だちが何人か遊びに来た。そのうちの何人かは男の子で、妹と共用だった子ども部屋に、彼らは突入していった。その直後のことだ。
「うわー、セーラームーンとかダッセえ!」
……そう、それだけのことだ。
幼稚園男児の、バカバカしい、くだらない発言だ。囃し立てられた記憶はあるけれど、「その程度のこと」だ。
なのに、きっとわたしは、これをきっかけに「自分の中で女子っぽいと思えるもの」を避けるようになった……ということに、最近思い至った。
それはきっと、彼らのリアクションに傷ついただけではない。確かに彼らの表情も、声色も、30歳になる今でもリアルに再生できるほどくっきりと思い出すことができる。けれど、それと同じくらい、はっきりと憶えているのは、そのときの家族の反応だ。
わたしのことを気遣うようでいて、どこか彼らと同じく「そうだよ。卒業しなよ、そろそろ」と言いたいような、そんな複雑な表情を浮かべていた。一方的に茶化されたわたしに対して、フォローすることはなく、もちろん彼らに対して何かを言うこともなかった。
わたしの「好き」を否定したわけではないのだと、今ではもちろん思っている。けれど、そのときのわたしは、家族にまで自分の「女の子」の部分を否定されたように感じた。それは事実だ。
このときに、わたしは自分自身の「少女性」を断ち切ったのだろう。
「女の子っぽいね」と言われることをしなくなった。(スカートは履いていたから、そこにまでは影響がなくて良かったなあと思う)
甘える、ということがこれまで以上にできなくなった。
「かわいげがない」と親に叱られても、かわいげのある態度をとることができなくなった。意地を張って、余計に叱られたことは枚挙に暇がない。
……ということに気づいたきっかけは、先日聞きに行ったカツセマサヒコさんと広瀬和哉さんのトークショーだ。
<トークショーブログ記事>
【カツセマサヒコ×広瀬和哉トークショー】すきなこと×ファンタジー×発信していくこと
【カツセマサヒコ×広瀬和哉】仕事になるまでの「すき」をつづけること×発信する大切さ
リカちゃん人形に携わる仕事をされている広瀬さんのお話を聞いている中で、「わたしはわたしの少女性を真っ向から否定しつづけてきたんだな」と思った。
その後、そうした話を広瀬さんご本人にすることもできた。あの頃は、仕方がなかったのだ。置かれている世界は狭くて、おかしくないことでも「おかしくないよ」と言ってもらえない世界に、たまたまいてしまっただけということだって、往々にしてあるのだから。
さて、これから、わたしはわたしの中に母親になった今でも根付いている「少女性」とどうつきあっていけばいいんだろう。「もうひとり」の「痛いんじゃないの?」という声を全力で無視して、25年ぶりに新しく手にしたリカちゃん人形を見つめながら、自問自答している。
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