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賑やかなBGM

ある日、バスに外国人女子学生のグループが乗車してきた。おそらく高校生ぐらいだろうか。この路線沿いにはとある海外高校の日本校があるのだ。その学校の学生である。アメリカ人かヨーロッパ人か分からないが、白人の学生だった。乗り込むや否や、後ろの座席1列目と2列目に座り、大きな声でおしゃべり。英語なので何を言っているかよく分からないが、車内には着席している他のお客さんがいるにもかかわらず、とにかく盛り上がり方がすごい。英語はイントネーションが日本語とは比べ物にならないぐらいアップダウンがあり、ジェットコースターみたいなので、声がよく車内に響くのかもしれない。

この学生たちを見ていると、日本人は本当におとなしいと思った。基本的にバス車内はいつも静かで、運転士と機械のアナウンスが淡々とBGMとして流れているのみ。学生同士でおしゃべりをする人もいるが、声のトーンをワンランク落として喋っているのか、車内全体に声が響き渡るようなことはない。

日本人でも小学生より小さい幼児になると、基本的にバスの車内であっても自由にしゃべり、声もよく響く。どうやら日本人は小学生にあがった頃から、バス車内で大声でおしゃべりすることはよくないことだという認識が植えつけられていくようだ。

大きな声で話をする=迷惑がかかる

という、日本人なら誰もがもっている共通認識。コロナ禍になる前から日本人が車内で大声で喋るのは、幼児、酔っぱらい、おばあちゃんぐらい。

コロナのことはさておき、車内で大きな声でおしゃべりするのはなぜ迷惑なのだろう。モラルがないのだろうか。

大声でしゃべるとは、つまり感情を出すことだと思う。

タッピーは、日本人は感情を表に出さないことがよいことだという文化があるために、外では大声でしゃべることをNGとする風習に繋がっていると思う。

感情を出さないとは、つまり我慢をするということだ。苦しくでも平気な顔でいる。悲しくても泣かないでぐっと我慢する。バス車内でぎゅうぎゅうのすし詰め状態でも、まゆげ一つ動かさないで耐える姿は、我慢が得意なことの表れであると思う。

昭和、平成と時代がながれ、もう時は令和の時代。そろそろこの風習を変えるべきところに来ていると思うのだ。

我慢はしても、結局その時の負の感情が消えることはない。我慢した時のストレスは結局は弱いところに吐き出すことにつながる。であるならば、我慢するのではなく、上手に自分の感情を表現したほうがいいと思う。


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学生が大きな声でしゃべっている時、周りの人たちは、「学生たちがうるさいな。寝れないじゃないか。」ではなく、「元気で活発な学生たちだな。」と考えることは出来ないだろうか。「自分たちもこんな時代があったな」とおおらかな気持ちで見守ることは出来ないだろうか。

たまに小さな子供がバスに乗ってきた時、ママに「うるさくしたらだめでしょ!」と怒られているが、子どもはうるさいぐらいが丁度いいと思う。子どものうちから我慢していたら、大人になったら反動で逆に我慢ができない人になるのではないか。

あの外国人学生たちは、大きな声でおしゃべりはしていたが、周りへの配慮は欠かすことはなかった。自分たちの後ろに乗っているお客さんが降りる時は、すぐに手を引っ込めて通路を塞がないようにしていたし、降りる時も全員が大きな声で「ありがとうございました。」と言ってくれた。

この日本語での「ありがとうございました。」は、なぜかとてもすがすがしく感じた。

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