見出し画像

『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』を読む。 #146

自己紹介はこちら


ミニマリストの本を読んでみると、あくまでもライフスタイルやノウハウを伝えるものがほとんど。ミニマリズムの歴史や社会的意義にまで言及しているケースはあまり見つけられませんでした。

そこで、ミニマリズムを学術的に考察した本はないかと探して見つけたのが、『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』でした。今回は、その要約や感想を書いてみます。ちなみに、本書はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をもじって名付けられたそうです。


第1章 消費ミニマリズムの流行とその背景

まず、ライフスタイルにミニマリズムの精神を取り入れることを発信している代表的な人物として、近藤麻理恵、ジョシュア・ベッカー、佐々木典士、ミニマリストしぶなどが紹介されています。

また、日本でミニマリストが増えた背景を「スマートフォンの普及」と「個性を主張しない若者たちの台頭」としています。たしかに、スマートフォンがあればほとんどのことは事足りる時代になってきています。

ざっくりと言えば、「ミニマリズムって流行っていますよね。その理由をこれから説明しますね」という確認を読者とする章でした。


第2章 消費社会とその批判

「ミニマリズムがポスト近代の消費社会に対する批判のなかから生まれてきたこと」を指摘しています。つまり、別に欲しいわけではないけれど消費するというのが当たり前で、消費が幸福と結びついていないのが現代社会ということです。消費をかきたてる要因として「エミュレーション」が挙げられています。

ヴェブレンは、自分よりもワンランク上の階級にいる人の文化を模倣することを「エミュレーション」と呼んだ。あと少しで手に届きそうな文化をなんとか手に入れたい。そのような上昇への欲求は、消費社会における私たちの行動を動機づける根本的なメカニズムであるだろう。

しかも、それは有閑階級と呼ばれるようないわゆるお金持ちも同じで、どれだけお金を使っても幸福にはなれないようです。お金持ちは幸せな生活をしていないし、それを真似ようとする人々も当然幸せになれないという悲しいカスケード。こうした地位財をめぐる軍拡競争は、『幸せとお金の経済学』でも指摘されているところです。


第3章 正統と逸脱の脱消費論

第2章では消費社会へのアンチテーゼとしてミニマリズムを捉えてきましたが、むしろ現代社会全般へのアンチテーゼではないかという主張がこの章ではなされています。

近代の正統文化には、つまり二つの理想がある。一つは「自己を完成させること」であり、もう一つは「文化の理想を体現すること」である。

そして、この二つは矛盾する場合があります。なぜなら、自己と文化の理想は一致するとは限らないからです。この矛盾を表すのが「文化の悲劇」という言葉です。

文化の悲劇とは、人が文化の理想を追い求める過程で、自己の魂の表現が二の次となり、その結果として自己の魂を完成させられなくなることである。

この章では文化の理想としての「労働」について考察しています。「働くことはいいことだ」という理想へのアンチテーゼとしてミニマリズムを位置付けることもできるということです。

さらに、自信のなさ故の強迫神経症の発露という心理学的視点、社会的地位を形成するための儀礼的な消費という人類学的視点からもミニマリズムの意義を考えています。資本主義において「消費と労働」は社会参加に必要な儀式であり、これらから逸脱すると日常生活を送れません。それに立ち向かう方法としてミニマリズムを位置付けることもできます。


第4章 ミニマリズムの累計分析

アメリカのミニマリズムの起源はアメリカのカウンターカルチャー由来であり、コミュニタリアリズムの運動の一つとして受け入れられていきました。このあたりの文脈は、「反逆の神話」で詳しく描かれていました。また、現代のミニマリズムの起源はデュエイン・エルジンの『ボランタリー・シンプリシティ[自発的簡素]』にあるようです。

一方で、日本のミニマリズムは「消費の質を『高級で自分のセンスを表現できる一点もの』へと転換するスタイルへと結びついた」と書かれています。

また、著者は「ミニマリストたちはしかし、仏教的な覚り、あるいは禅的な覚りを求めているようにみえる」や、「ミニマリストたちは、あくせく働かずにゆったりとした時間を過ごしたいと思う一方で、煩悩から脱却することにも関心を抱いています。この点でミニマリズムは、仏教や禅の文化と親和的である」と述べています。

「欲望の資本主義」という題名の番組がNHKで放送されていたように、資本主義は人間の欲望が労働と消費という形で現れることを原動力として動き続けています。ならば、その欲望(煩悩)をなくす試みであるミニマリズムは、アンチ資本主義の運動であるということになります。労働も消費も「そこそこ」でいいというミニマリストが一定数を越えた時、資本主義はどうなるのでしょうか。


第5章 ミニマリズムの倫理

この章では、ミニマリストがミニマリズムを実践する動機について分析しています。実際には細かく分類されていたり、豊富な具体例が記載されていますが、ここでは1. 自分の幸福のため、2. 資本主義への対抗のため、3. 環境問題への対策として、という3つがあるとしておきます。


第6章 ミニマリズムと禅

モノを所有しないことが幸福につながることは、「足るを知る」「本来無一物」などの言葉もあるように、仏教や禅にも同様の教えがあります。モノを捨てるという行いを通してモノへの執着を捨てていき、いずれはエゴや過去への執着をも捨てていくという実践的な教えです。

このように、禅では自身の欲望(煩悩)と向き合うように説き、欲望は満たされないということを唱えます。欲望を満たそうとすることは、まるで海水を飲むようなもので、満たそうとすればするほど渇きを覚えます。

何かを持つことは、何かに囚われることである。私たちはモノを所有することで、逆にそのモノに所有されてしまう。

まるで、ニーチェ「深淵を覗く時...」の話や、存在論的デザインでも指摘されていることですね。

また、禅が歩んできた「反体制」な精神も資本主義へのアンチテーゼとしてのミニマリズムと親和性があると考察しています。

わびさびの表現は、エリートたちの知性の証明となり、支配権力に抗しつつ、独自の文化を発展させてきた。そこに通底しているのは、挫折と、支配権力への抵抗である。このような経験は、現代のミニマリストにおいても、多かれ少なかれ共有されているのではないかだろうか。


第7章 資本主義の超克

シュトレークは、「資本主義はこれまで、勤労倫理と欲望消費という二つの駆動因によって発展してきた」としています。これは本書でも指摘されてきたことです。それに対して、ミニマリズムはむやみに労働しないし、むやみに消費もしない。このことが、資本主義を超克すると言えるかもしれません。

たしかに資本主義は制度上の限界を迎えているでしょう。しかし、様々な有識者が脱資本主義や脱成長を唱えていますが、現状を脱した後の世界は誰にも見えていません。ミニマリズムはポスト資本主義を担うかもしれないという主張で、本書は締めくくられます。


まとめ

豊富な具体例からミニマリズムをできるだけ多角的・網羅的に理解しようとする姿勢が感じられる本でした。自分なりに本書を要約すると以下のようになります。

資本主義は、労働と消費を理想として評価する現代の文化である。しかし、この資本主義が人々の幸福度の上昇に寄与しているのかが疑わしく、環境破壊を進めてもいる。そこで、スローな時間を大切にしながら、欲望・執着を手放すことを勧める禅の精神を汲むミニマリズムは、ポスト資本主義の口火を切る可能性を秘めた思想かつ実践方法である。

ポスト資本主義に向けて個人レベルで実践できることは、「適度に労働して、適度に消費する」ことかもしれません。これらは以下の記事とも共通します。

ヴェブレンの『有閑階級の理論』やボードリヤールの『消費社会の神話と構造』、マルセル・モースの『贈与論』など、消費社会をどのように捉えるかに関する古典を読む必要性を痛感しました。また、仏教や禅について、芸術や建築におけるミニマリズムの歴史も学びたいと思うようになりました。はぁ、ミニマリズムを理解する道は果てしない。

自分がデザイナーであるという観点から考えると、ミニマリズムの歴史や社会的意義を私が研究する必要はないのでしょうが、こうした知見を学ぶことはデザインをするために必要であると感じます。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,831件

#最近の学び

181,634件

いただいたサポートは、デザイナー&ライターとして成長するための勉強代に使わせていただきます。