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2024年7月18日 家庭菜園のためらいなき殺戮者


今朝、家庭菜園の様子を確認していると、
大きくなるのを楽しみにしているナスにカメムシのような昆虫がついているのを発見してしまいました。
発見したからには見逃すわけにはいきません。
特になすの実に張り付いているということは、実に何か悪さをしているということでしょう。
許すまじ。
「こんなことになって残念だよ…」と映画の悪役のように呟きながら、その虫を退治しました。
ほとんどためらいはありませんでした。
その後は、葉や茎に念入りに、野菜用の防虫スプレーをかけました。
昨日、カナブンだかコガネムシだかを見つけた時は、迷った末に、遠くに逃してやったというのに、
今日の自分が、あっさりと虫を退治することに決めたことにやや動揺しました。
家庭菜園を始めてから、段々と、「虫を退治すること」への抵抗感が薄れつつあります。
それも加速度的に。
もともと虫を怖がるタイプではないので、
自分に害がなければ、「逃す」という判断をしていたのです。
しかし、最近はどうも、「退治」という判断のほうが、大きくなりつつあります。

以前にも書きましたが、家庭菜園を始めた当初、
野菜苗の葉を食べているのがナメクジである、と気づいた時に発生した自分の憎悪に驚いた覚えがあります。
赤い炎ではなく、青い炎のような憎悪でした。
怒りに我を忘れるのではなく、敵が何なのか?そして、何を嫌がるのか?を瞬時に考えてしまうような、冷静な、憎悪です。
ナメクジが、家庭菜園に入り込まないように、
薬を置いて目を光らせるくらいには、
今もナメクジが嫌いです。
気持ち悪いからなどという感情的な理由ではなく、「野菜苗を食べてしまうから」嫌いなのです。
このように、
家庭菜園をやっていると遺伝子に刻まれた、
食糧闘争の歴史を感じます。
虫やなめくじに野菜苗を荒らされると、
「集めた木の実を奪われた」とか「獲物を横取りされた」ような気分になるのです。
家庭菜園は趣味でやっているわけですから、
野菜が取れなくても飢えることはありません。
本当のところ、実がひとつも取れなくても、別に良いはずなのです。
それでも、ナメクジや虫に野菜をやられると、
「命の綱である食料を奪われた!」というような気持ち、切迫感、激しい殺意がわきます。

「火垂るの墓」で、清太が畑泥棒をした時に、ボコボコにされる場面があったはずです。
昔はあの場面が恐ろしく、尚且つ「野菜ごときでそんなに怒らなくてもいいじゃない…」と思っていました。
家庭菜園をやってみると
、あの反応は無理もないと感じるようになりました。
今よりもずっと食料が少ない時代、畑の食べ物は、そのまま毎日の食事に直結していたはずだからです。
飢えてもいないのに、家庭菜園の野菜を少し虫に齧られただけで、立腹するのですから、
大変な時代に、畑から収穫物を奪われたら、どれほど腹が立つことかと思ってしまうのです。

家庭菜園というと「丁寧な生活」とか「のんびりした生活」と思われがちですが、
それら事実と反する…と感じます。
家庭菜園をするということは、実は、
「命のやりとり」
に自分も参加しているということを自覚することであり、
自分の中にある殺意や暴力性にかすかに触れるということなのです。
家庭菜園を続け、広げている先達は、
虫だけでなく、野生動物や泥棒とも戦っている人もいるようです。
虫との戦いでも、感情が動くのですから、哺乳類相手ならもっと、でしょうね。

日頃、どれだけ「命のやりとり」をせずに、食べているのか…と考えさせられます。
無駄に虫を殺す必要はありませんが、
家庭菜園で収穫することを第一に考えるなら、
今後、腹をくくって、「命のやりとり」をしていくことになるのかもしれません。

真夏に向けて、
夏野菜はみのりの時期を向かえるでしょうし、
虫も盛りの時期になりますから、
これからは「1日1殺」になっていく可能性があります。
今は、まだ、ためらってから、退治していますが、それも「1日1殺」を続けていくと、どうなるでしょう。
秋頃には、虫を対象とする、ためらいなき殺戮者に仕上がっている可能性があります。
恐ろしいような、興味深いような…。

生き物というのは慣れようとするものなのだ、と改めて思います。
やったことがなければ大変な、心揺さぶることであっても、
何度も繰り返して行えば、それはルーティンのひとつになっていくのでしょう。
家庭菜園何で野菜を育てるだけ…と思っていたのですが、
なかなか考えさせられます。
特に自分の中にある「生き物」の部分が刺激されるようです。
さて、秋口に、自分はどうなっているでしょう。


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