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2024年3月18日 変わる季節と変わらぬ友


吹き付ける風は冷たいのですが、
遠くの空が明るい白にけぶっていて、
じっと見るには眩しすぎます。
手で目元にひさしを作り、ようやっと、遠くのビルが見えました。
光にも暗闇にも弱い目なので、明るくて嬉しいと思いつつ、目の中で踊る光に圧倒されます。
空はあんまり明るくなると水色を通り越して、生成りの布のような色になるのでした。
空の表面はフェルトのうに、軽く毛羽立ち、端の方は行くほど水色です。
振り返って見上げる空は、綺麗な水色です。
一点のくもりも澱みもない、均一な空でした。
白っぽい空の方には、太陽が沈んでいっているようでした。
経験上、こんなに明るいのは、春です。
卒業式の数日後、
終業式の数日前、
ひたすら眠る春休みの頃、
これまでに経験した様々な春の経験をほろほろと思いだします。

季節は勝手に進んでしまっているのです。
正しくは、季節に取り残されているということなのかも、と思います。
季節や動植物は、変化に敏感で、もっとずっとうまく変わっていけるのでしょう。
人間は、いや、少なくとも自分はそれほどすんなりと変わっていけていない気がします。
こんなにも春がスムーズにやってくるのと、対照的です。
変化が苦手で腰が重い自分のことを
「軽やかでないなぁ。もっとこだわらずにすんなり変わって行ければいいのに」と
少し疎ましく思ってしまうこともあります。
もっと、さーっと変われたら良いのに、と思ってしまうのです。

先日、
学生時代の友人と久しぶりに会いました。
前回は秋にあったので半年ぶりでしょうか。
その半年の間に、お互いそれぞれ色々な出来事があり、
その出来事を報告し合うだけで、時間は過ぎてしまいました。
こちらの性格や感覚をよく知っている友達ですから、話がすんなり、伝わりやすいのです。
感覚の敏感さを大げさなものではなく、体質のひとつとして理解しくれているということは、とても気楽なのです。
最近感じたあれこれ、体験したあれこれを次から次へと思い出して話しました。いくらでも話せるものだなぁ…と思います。話題が尽きることはなさそうでした。
いくつかのお店を梯子しました。
梯子といっても、お互い下戸でアルコールは飲めないので、ひたすらコーヒーや紅茶を飲み、食事をしていただけです。
アルコールが入らないので、意識がぼんやりするとか感情の高揚があるわけではなく、ひたすらお互いの話したいことを話し合います。
友人と言える人々はこの「遊び」が出来る人だけです。
「お酒抜きでお茶をしながらひたすら会話をする」というのが、究極の「遊び」なのです。
「会話」が成り立たないこと、禁止される場所に、おそれにを感じるのは、それが自分にとって最も慣れ親しんだ遊びだからだと思います。
刑務所や禅寺のような会話を禁止される場所は、かなり苦痛だろうと思います。書くことが出来れば会話はいらないという方もいるでしょうが、自分はそういうタイプではないことは確かです。語った上で書く、会話があってこそ書けることができるという人間だと思います。
書くということだけで独立していないのです。
ですから、どの宗教にも存在する、言葉を出さない修行は考えるだけで、ひどく恐ろしい気がします。会話をしないで到達する領域を、信じることができないのだと思います。
言葉も会話も万能ではありません。
でも、内省だけ、個人の頭の中だけとは異なる、双方向性の世界がそこにはある、と信じたいのでしょう。

友人との「遊び」では、いくつかの店をさまよって、最終的に、フードコートに落ち着くことになりました。
フードコートでは、高校生や大学生のグループがそれぞれの時間を過ごしていました。
学生の頃、食堂で、昼食が終わった後も話し続けていた時と、よく似ています。
ばらばらだけど、一体感があるような学生特有の雰囲気です。
気怠いけれど、薄皮一枚の向こうには未来への焦りや不安が包み込まれているあの感じ、です。

友人と仲良くなったきっかけは思い出せず、
思い出すのは、食堂で、教室で、教室前のベンチで、ただただ喋り続けていた場面ばかりです。
その頃、いつでもこういう雰囲気の中で、しゃべっていたのです。
友人はあの頃から落ち着いた人間でしたが、
一方のあの頃の自分は、友人と話し込みながら、どこかで焦燥感に駆られていました。

自然と笑顔になります。
気怠い雰囲気の底に沈められた焦燥感、
何かをしなくてはいけないけれど何をすればいいかわからないあの感じ。
本当に懐かしく感じたのです。
その頃の会話の内容も大した話ではありません。
好きな音楽、見た映画、見たい映画、好きな映画、読んだ漫画、読んだ本、講義のこと、バイトのこと、家族のこと。
それはどれもそういう身近な話から始まって、いつもやや哲学的な話、観念的な話になっていくのでした。

先日の懐かしい再会でも、結局はそうなったのです。
もちろん、昔と違って、健康と仕事の話が主となりましたが、
日常生活の話から、世界を語る、
つまり、真剣に会話を楽しむ、「遊び」ができました。
時間経過はすれど、お互い元気で、この「遊び」ができることに心から感謝しました。
「さっと変われる存在になりたい」とよく思いますが、こういうことがあると、
「変わらない」「変われない」ことにも良さがあるような気がしてきました。
変わりたい変わりたい、変わらなきゃ変わらなきゃとばかり思わなくても、いいのかもしれません、
少なくとも、友人は変わらず、大切にしていこう、と思います。


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