安眠計画

大阪の浄家。アナキスト。

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    みんなで作るニートなマガジン。ニートの日記、エッセイ、活動記録、ノウハウ、メンタル問題、低コストな娯楽、節約方法、貧乏旅、思想や哲学、作品評など。

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猿でも成れる社内ニートのつくりかた

やあやあ初めましての方は初めまして、俺は安眠計画(@unmi_n)。 高校生くらいまではまったく勉強せずともそこそこの進学校に行けて、高校から始まるラットレースのような努力競争に正面から向き合えず、当時流行していた合法ハーブや、この世の終わりみたいな心象画を描くこと、女装や奇蟲飼育、天体観測、インターネットなどに惑溺して、それでも現代文の成績だけは3年間全国模試で上位だったみたいな、Twitterによくいるゼロ年代のオタクです。 当時の俺にとって学校生活とスーパーマーケット

    • 守護霊とのつながり方② ウヂとイエについて

      まずはその①を読んでね。 さて、守護霊と呼ばれる存在についてその分類は大まかに分かっていただけたことと思うが、その②ではもう少しだけウヂとイエの違いや、具体的なアプローチ方法(つながり方)について述べたい。 尚、本シリーズでは正しい先祖供養に立ち返る過程で呪いや生霊飛ばしなど、悪用すれば自他の靈を深く傷つけてしまいかねない技術についても書いていくので、シリーズのどこかで有料化するかもしれない。 あんまり「本当のこと」をマネタイズするのは靈に良くないが、秘伝口伝の類をインタ

      • 守護霊とのつながり方① ウヂとイエの神佛

        今夜は求道者の皆さんに守護霊について語ろうと思う。 守護霊には大きく分けて二系統ある。A.ウヂを護るもの と B.イエを守るもの だ。 現代ではウヂとイエが混同されがちだが、守護霊や守護神、守護本尊の系統は本質的には明確に異なる。その証左に、旧家では神棚と仏壇の両方がよく見られるが、これは儒教では魂が「個」として認識できるのが四代(=高祖父母)までとされていることから、遠津御祖は神棚、イエの守護本尊は仏壇というように分けて祀られていることによる。 本朝では永らく神仏が混ざ

        • 虚無と多様性 ニーマガ関西オフ感想

          去る4月20日、ニーマガ物理版発刊記念オフ会@関西が大阪城公園〜京橋エリアで開催された。 420というとサイコノートたちに特定の「文脈」が付与されてしまいそうな数字の並びだが、アルコールとニコチン以外におもだった精神作用物質は見られない──隠れて摂取している人がいたかどうかは知るところではないが──いたって健全な会だった。 なんならアルコールでさえ、夜間行動力(夜通し飲み明かす余力)を確保するために「攻めのウーロン茶」でもって理性的かつ適切に管理されていた。 もっとアナー

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          「冷笑的態度を冷笑すること」を冷笑しないこと

          俺はオタクだ。 オタクはだいたいキラキラ健常者の10〜15歳ほど情緒的な面で幼いとされる[要出典]が、俺も実感として本当にそう思う。 今年で31歳になるが、気分はまだキラ健大学生くらいである。仕事は本当にしょうもないし、たまになぜ存在しているのか分からないジジイとかにエンカウントする。如来がご覧になればみな慈しむべき存在だと頭では分かっていても、なぜ存在しているのか分からないジジイが、なぜ俺の人生に登場するのかが分からない。 加えて約束もろくに守れないし、「ならぬものはなら

          「冷笑的態度を冷笑すること」を冷笑しないこと

          死ぬまで

          ゆるふわ無職くんは「死ぬまで生きるしかない」という言葉を胸に秘めて──正確にはブログ記事(https://yrfwmsk.com/152-2/)として公開してくれているが──生きているらしい。 俺は彼のことをかなりクレバーで、常に中道の視点を忘れず、しかも良心的な人だと思っているので、きっとそれは長い時間と批判的思考をかけて研磨されたポリシーだろうと思う。 抽象的な人生の指針を決定するにあたって、思考のリソース(=思考の深さや時間)が有限である以上、「何を言うか」よりも「誰

          至近未来SF短篇:資本主義が終わったあと

          「パパ、あれなぁに?」  郊外を自動運転システムでドライブしていると、人体に無害な新素材ガラス繊維でできた皺ひとつない子供服を纏った男児が、天を突くように巨大で、無骨な直方体を指差す。 「あれはね、カイシャっていうんだ。パパが子どものころは確かまだトヨタやミツビシが稼働してたかなぁ」 「パパ! 変なこと教えないで。タッちゃん、あれはすごーく昔に、悪い人たちが『働かないとまともな人間じゃありません』と言って多くの無産階級者に対して半強制的に心理的負債を負わせていた、怖〜い場

          至近未来SF短篇:資本主義が終わったあと

          唯一の宇宙、対話の可能性

          人は如来になることができる。 人だけではない、魚や鳥、猿、木々や石ころだって仏性は具えている。 異なる遺伝子や形質を持つ他者が、異なる場所で、まったく異なる経験をして、「たった一つの現実」を、ただそのままで倫理的に生きるに値する現実を偏ったポジションで生きている以上、意見の食い違いは避けられない。 これはムスリムとユダヤ民族とか、クルド人と川崎市民みたいに、文化的に異質でひとつのリソースを奪い合う他者というレベルでなく、職場のサンオツや親・きょうだいのような近しい存在で

          唯一の宇宙、対話の可能性

          対話の不可能性、あなたという宇宙

          人は宇宙だと思う。 人だけじゃなく、魚や、鳥、猿にとっての宇宙もある。ミクロコスモスと言い換えてもいい。 異なる遺伝子や形質を持つ他者が、異なる場所で、まったく異なる経験をして、一つではない「現実」を、恣意的な現実を眺めている以上、われわれが真に分かり合うということはあり得ないだろう。 これはムスリムとユダヤ民族とか、クルド人と川崎市民みたいに、文化的に異質でひとつのリソースを奪い合う他者というレベルでなく、職場のサンオツや親・きょうだいのような近しい存在であっても、「分

          対話の不可能性、あなたという宇宙

          絶望の絶対値

          絶望。 デンマークの哲学者、キェルケゴールが「死に至る病」と表現した人類最悪の精神状態。 生きていることがつらい、何もできないのがつらい、何者にもなれないことがつらい。果たして来年の自分が生きているのか、死んでいるのかすら分からない。お金がない、愛されない、病気が重い、人は必ず死ぬ……。 生きているとそうした「絶望」によって、すべてのものが等しく無価値に感じることがある。まるで降り止まない大雨の中にいるように、死へと向かうノイズが正常な(そもそも「正常」ってなんだ?)思

          絶望の絶対値

          take a great walk

          春。それは無職の季節。 何度かニーマガメンバーが引用したことのあるメキシコの漁師のコピペ(参考:「働かないで将来どうするのw?」論考https://note.com/yrfwmsk/n/n4928eb6d2b62)のように、ポカポカした気候は狂った勤労の美徳を掣肘する。 そういえば、雪国では雪かきのようなQOL向上に直結する労働はあれど(余談だが、有名な男鹿半島の「ナマハゲ」も、冬に雪かきせずにダラダラと囲炉裏にあたっていると手足にできる「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火

          take a great walk

          「私・俺は教学はあんまりやけどなぁ」

          南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 創価学会にいるとよく聞く言葉がある。 「私・俺は教学はあんまりやけどなぁ」 俺は学会員からこの台詞が出ると「うわっ」と思う。 大聖人は「信・行・学」の三本柱に支えられた、鼎型の精神状態を何よりも尊ばれた。脚は三本無ければ、太陽の仏法に向かって真っ直ぐ身を延ばすことはできない。人はつい目に見える二本の脚のみで立っているつもりと錯覚してしまうが、信仰という三本目の脚、仏縁に生かされて、なんとか無様に身を起こしているに過ぎない。

          「私・俺は教学はあんまりやけどなぁ」

          the Tenth Day YEBISU

          商売繫盛で笹持ってこい♪  こんばんは、安眠計画です。みんな儲かってまっか?  今日は全3日に分けて執り行われる十日戎(とーかゑびす)の2日目、「本ゑびす」だった。初日を宵ゑびす、3日目を残(のこり)ゑびすと呼び、「残りものには福がある」の語源にもなった(と勝手に霊感している)例大祭だ。  三代続けて大阪(おーさか)市内育ちの安眠計画も、もちろん現住所の氏神の一柱である某戎神社でお祓いを受け、大きな福笹をお分かちいただいた。大阪の企業には社業発展、商売繁盛を祈願して社内

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          法華経は神

          南無妙法蓮華経。 南無妙法蓮華経。 南無妙法蓮華経。 これより迹門をひらく。 身延山で合法紙を喰って、日蓮聖人に遭ったことがある。 ご存知の通り、身延山は山梨県南巨摩郡の身延町と早川町の境にある標高1,153mの霊山であり、同時に日蓮宗総本山久遠寺の山号でもある。 日蓮宗というのは本当に興味深いセクトだ。聖徳太子の時代から、すなわち「正式」に仏教が本朝に伝来してから受け継がれてきた法華信仰に、民衆一人ひとりを不惜身命の法華行者に変容せしめるような「熱」を与えた宗教的リーダ

          法華経は神

          宗教的罪悪について

          緋文くんと朝の5時から2時間半通話した。 そこでいろいろと興味深い話も下衆な話題も混ざり合っていたが(これは単なる告白なんですけど、こういう聖/俗や貴/卑みたいな両極端を同時に抱え込めるデカい人間性が好きだ)、その中で引っかかったトピックがある。 神道には祓える罪・穢れはあっても「原罪」のような、「メンヘラ男が女を依存させたいがために使うダサい口説き文句」のようなどうしようもない人間観はないとする信仰である。 確かに(インターネットの一部では)有名な神道系の拝み屋さんもこう云

          宗教的罪悪について

          クニ⊂カミ雑考

          このわたしは何か大きなものの一部なのか。 全体に奉仕する個体なのか。それとも全体が生む共益を、それに見合う対価を支払わずに啜るだけの寄生的な個体なのか。 ある日なんのサイコアクティブも摂取せず、瞑想などの変性意識を呼び出す手続きもとらずに、自分という存在の根幹、魂の故郷のようなものに触れたことがある。「根幹」という漢語は本当によく名づけられていて、「そこ」に触れるとルーツやシャフト、つまり根や幹のような、枝葉末節である膨大な「わたしたち」に接続されている大樹のイメージを自

          クニ⊂カミ雑考