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「おせがき」の功徳はどこへ廻(めぐ)るのか

狂暑。

これは毎年Twitter(現X)で言ってるけど、本当に、夏(なつ)というみやびな和語は既に実態に即していないので、獄暑とか灼死とかに季節の名前を改めるべきではないかと思う今日このごろ、貴様らにおかれましては息災ないでしょうか。

夏といえば、そろそろお盆の季節やね。

お盆といっても、実家に集まり、お墓参りするついでにお寺さんの本堂をチラッと横目で見る……くらいのイベントと考えている人が多数ではなかろうか。
俺も仏教徒として回心するまではそのような感じだった。

そこで簡略ではあるが、本記事では①お盆(盂蘭盆会)とは何をしているのか ②お盆とセットで行われる「おせがき(施餓鬼会)」とは何かを考え、「おせがき」の功徳はどこへ廻(めぐ)っていくのかについての私見をまとめたい。

①お盆とは何をしているのか

お盆。
その由来には諸説あるが「日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事」というのが仏教徒と宗教学者が互いに合意できる最大公約数的な定義だろう。

この物質的な肉体が滅び、他界を経て、再びこの世界に戻ってくるという再生の呪術は古今東西に見られる。
植物は冬になると枯れ、一度死んでしまったように見えても、春になると新芽を出し、夏になると若葉の緑がまぶしく光る。月の満ち欠けも生命のリズムを表現している。
「すべては流転し、死はひとつの状態に過ぎない」とアナロジカルに考えるのは何も日本人だけでなく、世界中の小規模社会や土俗的な社会に広範に見られる習俗だ。
カルデックの「リインカーネーション」のような進歩史観的なスピリチュアリティが流行する前から、それこそ縄文時代に遡るまで、教典などなくとも生命の循環はごく自然に捉えられてきた。

一方、仏教的にはお盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)という歴とした法要で、これは竺法護訳の『般泥恒後灌臘経』や『仏説盂蘭盆経』、『経律異相』などをおもな典拠とする儀式だ。

それらの経典では過去世において貪りをやめなかった悪因によって、餓鬼道に堕ちてしまった亡母を救うため、釈尊の高弟が正しい供養の実践と、儀式の成満を描く。

悟りを妨げる三毒(貪・瞋・癡)の中でも特に貪(梵: rāga)を強く戒める内容からも分かるように、おもに食べ物を使って霊界、特に本朝では先祖の霊とのコミュニケーションを図る。
(本題とは外れるが、元々は夏安居というハードワークが終わった僧侶たちを供養・饗応していた行事だったはずが、ご出家を獄暑のなか最もハードに働かせる儀式に変わっていったのが在家仏教的で興味深い)

上記の通り、素朴な祖霊信仰と仏教の輪廻転生が止揚された結果、「お盆」は誰も全容を説明できないまま、全国的に弘まってきた。
柳田國男でなくともその二つは教義上矛盾しているじゃないか!と思うことだろうが、そうした曖昧な感じがアジールっぽくて良いと俺は思う。

②お盆とセットで行われる「おせがき(施餓鬼会)」とは何か

お盆と違い、おせがきはかなり純粋な仏教的儀式だ。『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』に説かれており、真言宗の開祖である弘法大師空海が唐からこのお経を持ち帰り、この極東の島国においても施餓鬼が行われるようになった。

『救抜餓鬼経』を要約すると、釈尊十大弟子のひとりである阿難尊者が瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現われ、「お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう」と予言する。阿難尊者が釈尊に相談したところ、「お経を唱えながら多くの餓鬼や僧侶に食べ物を施しなさい。そうすれば、あなたの寿命は延びて悟りを開くことができるでしょう」と説教された。その通りにすると、多くの餓鬼が救われ、その功徳をもって阿難尊者も寿命を延ばすことができたという。

上記の通り空海さんが伝えた歴史的経緯から、真言宗さんでは今でもその儀軌は古態を遺している。餓鬼を怖がらせないように静かに、そして夜行性の餓鬼に合わせて夜中に行われる。

真言宗さん以外の宗派でも、お盆には祖霊以外に無縁仏や供養されない精霊も訪れると考えられたことから、おせがきはお盆とセットで、昼間に盛大に修されるようになった。しかし本来の施餓鬼はお盆とは違い、通年自由に供養していいとされる。実際、わが宗門には毎日おせがきを行じているお寺さんもいくつかある。

また施餓鬼の功徳は莫大なため、中世以降はその功徳を先祖に振り向ける追善供養として行われるようにもなった。
ここで注意すべきは、盂蘭盆と施餓鬼は仏教徒ならば混同してはならないということ。
お盆の曖昧なシンクレティズムは布教のために土着信仰と混淆した方便と解釈することもできるが、盂蘭盆と施餓鬼の混同は教義上の混乱によるものでしかない。ここを取り違えてしまうと、ご先祖と自らに堕餓鬼道のカルマを背負わせてしまう。

そこでここからは、ひとりの仏教徒として、本題のおせがきの功徳は最終的にどこへ廻るのかについて考えてみたい。

まず旧暦7月15日にあたる中元節を起点に、先祖の霊を始めとする有縁無縁の餓鬼道の衆生たちが冥界からこの世に現界する。
祖霊や精霊、餓鬼たちは長い旅路に疲れ果て、喉は渇き、飢えている。しかし冥界の主からは物質界にむやみに干渉することは許されておらず、人から「食べてもいいよ」と捧げられた供物にしか手を付けることはできない。中でも餓鬼道に堕ちた衆生は、正しく供養されたもの以外を手に取るとたちまちのうちに燃え上がり、何も口にすることはできない。

そうした目には見えないが憐れな存在への慈悲心を起し、仏典に沿って供養することで、苦しむ餓鬼や飢えた精霊を救った功徳は、一旦先祖の霊に廻向される。

本朝は伝統的に仏教のコンテクストを共有してきており、また先祖の霊位には戒名が授けられている。つまり祖霊というのは、冥後も仏道修行者として他界で励んでいると考えられる。

そして、自身の子孫(=自らの業因の果)からの功徳を受け取った祖霊は、お盆が終わると自身の世界へと還っていき、さらにその世界で応供(アルハット)とされる尊者に振り向けられる。

今年のお盆やおせがきの供養では、ご先祖と共に食べ、冥福を祈ることはもちろん、その功徳がいくつもの平行宇宙を巡り、やがて法源へ還っていくイメージを持ちながら、手を合わせてみてほしい。

南無阿彌陀佛

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