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労働は「魂の殺人」か

J・L・ゴダールは「すべての労働は売春である」と喝破した。

俺も心の底からそう思う。

労働とは、アンチワーク哲学を展開するホモ・ネーモさんが主張するように「自分がやりたくないこと」を金の力で無理やりやらせる強制力の発露だ。そしてその金の力の背後にあるのは巨大な暴力でしかない。

加えてもうひとつネーモさんの記事を引かせてもらうが、「むかしむかし、まだ労働がなかったころ【アンチワーク哲学】」にあるように、国家は暴力を占有し、金とかいうなんの役にも立たないガラクタを配ったり奪ったりすることで、「国民」の価値を規定しようとする。
このD・R・グレーバーの『負債論』にインスピレーションを得たと見受けられるストーリーをネーモさんは「神話」と呼んでいたが、これは神話でもなんでもなく、わが国の正史だ。

日本という国は、北東アジアや東アジアの水稲耕作民が、気候変動や戦火に追われて海(アマ)を渡り、土着民族である縄文系の諸部族やエミシと融和し、あるいは鏖殺して、あるいは奴隷として諸国に売り捌いて成立した。
西暦708年から715年までの期間の元号を和銅(わどう)というが、そもそも和銅という元号の由来は武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)から、和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる国産銅塊が発見され、朝廷に献上されたことを祝したものだ。和銅元年5月にはあの有名な和同開珎が鋳造されている。続いて和銅4年には蓄銭叙位令が施行され、金をたくさん持ってるヤツは偉いという資本主義イデオロギーが早くも完成した。

こうした経済政策の他にも、軍事政策においてもわが帝国は抜かりない。

和銅元年9月には山形県庄内地方に出羽郡を設置し、前後して出羽柵を築いている。柵(キ)とは古代の城のことだ。城といっても織豊時代に築かれたような平城や山城、また平山城のような立派な天守閣を持たず、その最上級であっても「国府」として扱われた。

古代城柵の復元図



さて、そのような国府、つまり都市を、“異邦の民”たるエミシたちの中心地に据えた理由はなんだろうか?
答えは簡単だ。皇民の自給自足の手段を奪い、唯ひとつのブルシットワークを課すためだ。
征伐である。

将軍、つまり「征夷大将軍」が武家の最高峰とされる所以はここにある。異邦民をバッタバッタと征伐し、天皇の領域を押し広げた実務家こそ将軍の正体である。武門と公家、将軍と天皇はあくまで前者が「任命される側」で、後者は任命する主体なのだ。

ここにグレーバーの、いやネーモさんの貨幣論は、本朝においておよそ「神話」でなかったことが証明される。カネは兵士を養い、資本主義イデオロギーに毒されていない文化圏の民衆を暴力と権力の奔流によって飲み込んでいく。ここまで来ると、陰謀論者が「天皇はユダヤ資本に操られたサタニストだ!」と喚いているのも、あながち嗤えないように思えてくるのは俺だけだろうか。
少なくとも、どちらも「資本主義」を支配の文法として利用していたことは共通している。
なんと綺麗な平城京、なんとくだらない資本主義だろう。

まだまだ書きたいことはある(わが国における資本主義の発展と、世界初の先物取引所に至るまでの歴史など)が、ここまで書いて、われわれまで国や資本家の暴力性に屈従する必要はないことは分かってもらえたような気がする。
いや、分からなくてもいい。人はいつか必ず死ぬ。奴隷ごっこの時間は、もはや1秒たりとも残されていない。警告はした。

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