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守護霊とのつながり方⑤ 家伝によってイメージする

本シリーズも第5回目となった。

守護霊とは今まで書いてきたように、先祖や土地といった時間的・空間的に横溢するエネルギーのことだ。
イエやウヂの大分類はあるにせよ、自らのルーツから霊的守護を確かめようと思うと、必ず参考にすべき情報がある。

家伝だ。

家伝とはそのイエにおもにロイ(口伝)によって伝えられる霊性の系譜であり、謂わばイエのための神話だ。神とのつながりの回復に必要なのは物語であり、たとえばこの世界で最大の神話は「聖書」であろう。
神道家的な観点で言うなら、あれはアブラハムという偉大な預言者の霊性に続く系譜、セム語族のための神話だが、しかしそうしたイエの神話はキリスト教が世界的なケリュグマに成功したことによって贖いと救いのベールに包まれてしまった。本来であればヤハウェの計画に入っていなかった者にまで「通電」してしまったのである。
そうした覆いを暴き、イエの神話性を回復したのがイスラームであった。積極的に現地の言葉に翻訳されたキリスト教の新約聖書と異なり、アラビア語による神の言葉の厳格な保存及び管理と、預言者ムハンマドの出身部族であるクライシュ族(=ウヂ)を中心としたカリフ制による、イスラーム共同体(=イエ)は現代にまで部族秩序を築いている。

さて、では現代日本人にとってのクルアーン(اَلْقُرْآنُ:「読誦すべきもの」の意)は何か。
俺はそれこそ各家に伝わる仏教の経典であるべきだと思うが、残念ながら、現代伝統仏教各派の教えは「実働品」として動かせる人が減ってきている。「葬式仏教」と揶揄され、僧侶への畏怖やリスペクトを喪った現代では、寺族に生まれた衆生を導くべき大衆(=僧侶)であっても「動かせない」、つまり信仰という電気が喪われた家も多い。ちなみに話は逸れるが、「葬式仏教」というワードは俺個人としてはそれほどマイナスに思っていないというか、日本人に即した儀式を継承できていない新興宗教のやっかみでしかないと感じているが、それはまた後日語ろう。

それでは現代においても多くの一般人の宇宙で正しく動作する「読誦すべきもの」とは何だろうか? たくさんの現世利益を生み出し続ける科学か? それともあらゆる欲望と交換可能な貨幣だろうか? いやいや、カシコい奴や金持ち以外をも救うことのできるサブカルチャーだろうか?
俺はそれこそ、古惚けて埃の被った、真実かどうかの客観性の担保もされないような家伝ではないかと思う。

家伝とは先に述べたように、イエの神話だ。
イエとはあなたの所属する最も基礎的な社会であり、信仰を電気に譬えるなら電子回路基板や半導体チップにあたる。基板が無ければ、仮にどんなに優秀なソフトウェアを持っていてもシステムは走らない。中世、基板たるイエ無き市井の人々は、仏教というクラウド上で霊性を必要なときに必要な分だけ享受したが、仏教がハイコンテクスト化した今やその救済措置にログインするパスワードすら忘れてしまったような人々で溢れている。

しかし家伝は伝統仏教ほどの研鑽が無い分、構造が単純で、素人にも動かしやすい。冒頭に「おもにロイ(口伝)によって伝えられる」と書いたが、家系図や家伝書などモノとして継承されているイエもまだあることだろう。
信仰とはイメージの世界だ。自身が光に包まれる具体的なイメージが湧かなければ守護霊は正しく動作しない。逆に如来やキリストに救われるイメージが湧かなくとも、家伝によって武士や農家であった先祖を思い浮かべることさえできれば、その瞬間、祖霊は微笑む。

そのように多くの人にとって動作しやすい家伝の弱点をひとつ挙げておくと、客観性の乏しさというのがある。
例えば家伝を信じていると「お前が藤原氏の流れなら、俺は天皇の子孫じゃ!」と他者にバカにされることも少なくない。しかし、そうした批判は実際に天皇まで遡れるイメージが湧いていない雑魚であることがほとんどである。
イメージできていない者の言うことは聞かなくても良い。ある程度信仰が深まると自身の観を自在に操作することは容易いが、他者のイメージを、つまり宇宙を変革するのは如来の仕事だからだ。
「お前は天皇の子孫ではないし、ましてや如来でもない」と考えて、自身の家伝を究めることに専念すればよい。信仰は主観、つまりお前自身の問題である以上、他者のまなざしは必要ない。

霊的に武装しろ。
魂を護れ。

しようや、御先祖トーク。

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