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くだらない話をしよう

日本語でも「ケア」の哲学が語られるようになって久しい。

極東アジア、いわゆる儒教文化の根強い地域では「ケア」は女性によって「なされるもの」とされてきた。
これまで家政婦や専業主婦、看護婦など、おおよそわれわれが「ケア」と呼ぶ行為を専門に掌ってきたのは女性だった。

しかし今や、男女の“機能”を区別することは大っぴらには認められなくなり、ケアの専門家は女性でも男性でも、ましてや第三の性でもない。
現代では、各自が自分自身の専門家となってセルフケアすることが義とされており、仮にその能力に不足があった場合は、多大な人件費をかけてアウトソーシングしなければならなくなってしまった。

そうしたわれわれを取り巻く環境の変化に比して、現代の日本人男性の多くはケアの初心者だ。
人を喜ばせる方法も、その意義もあまり理解できぬまま「社会」に投げ出され、狭くて汚い部屋で独りムクムクと増大していく狂気(エントロピーの崩壊)に立ち向かわなければならない。
これはトイレトレーニングも済んでいない幼児に、公共料金の支払いを督促するようなものだと思う。身体が大きくなっただけの幼児は、ただ金を稼ぐための機械になってしまう。

もし自分を大切にする方法が分からないなら、誰かに大切にしてもらうというのはかなり再現性の高い対策だろう。
それは何も固く誓い合った恋人関係の間にしか生まれない行為ではない。特定の地縁や年代の縁を頼りに、自分と似ているが、しかし決定的に異なる人たちと交わる。あるいは自分だけのものだと思っていた悩みや問題を抱える人たちと語り合う。たったそれだけでも、孤独な男性にとっての大きなケアになる。

正直俺も未だに自分を大切にする方法が分かっていない。
どうすれば自分を大切にしたということになるのだろう。清潔? 健康? 余裕?

しかしまあ、答えの出ない話について、延々と語り合うことのできる友人がいるということは、既にほとんどその問いは解決しているんじゃないかなと直感している。

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