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雑感:法然と日蓮

法華経に基づいて修すると何かが積み上がる感じがする。
自分の中に、複雑で難解な白く美しい塔が建設されていく感じ。
これはセム語族の神話に触れたときに似ていて、上から偉大なものが降りてくる、もしくは罪深い自己が聖(きよ)められ上がっていく、タテの力だ。

一方、浄土門に入り、念佛行に邁進していると、自分の中の凝り固まった何かが崩れていく、壊れていく感じがする。
このトリップは法華経や聖書では得られない。
魂(と仮定される基底意識)の膿がヨコ向きに流れ出ていく。消えていく、吸い込まれていくような心地よさがある。

上記2流派は伝統的には「顕教」とカテゴライズされるもので、その外側に教判されるところの密教を実践していると、そのどちらでもない、何か大きなものと一体になるような感覚がある。
タテでもヨコでもない、常人にはおよそ知悉できないような三次元的な酔い。

上がっていくことに強い恐怖心を覚える人もいるだろうし、「自分」だと誤解していた部分が壊れて流れ出ていくことに不安を感じる人もいるだろう。密教的な一体感はそもそも知覚できない人もいる。

その人に合った悟りへの道は必ず用意されている。そしてそれをサポートする諸菩薩や天部も控えている。
もし今生で涅槃に到達できなくとも、各自の霊魂の運動に身を任せて、その方角に向かって螺旋を描きながら、軌道を微修正していけばいいと思う。

俺はお前に合った道を教えるサポートくらいならできる。

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