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無名人インタビュー:中学の時にいじめに遭っていた43歳の人

ああお待たせしまして申し訳ありませぬ。ということでqbcと同い年、孝太さん回です!
ででーんとタイトルに「いじめ」ととりあげてはおりますが、そんなに「いじめ」ふれてません。アクセスアップ狙い。。。
今回は、就職氷河期世代のブラック企業すごろく的意味合いが強いですかね。ひとつの時代の影響を強く受けた一人の人間の懊悩と再出発。
人間て、死ななきゃまあなんとかなるんだなって。
ちうことで孝太さん回、おっ楽しみにー!

今回ご参加いただいたのは孝太さんです!
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1、転職転職転職して北九州

qbc:どんなインタビューにしていきましょうか。

孝太:僕、九州に行ったことで人生がすごく変わっちゃったんですね。それがきっかけで今の自分がある。そこをメインでお話しできればなと思います。

qbc:あれ私と同い年ですか? 78年生まれ?

孝太:そうです。78年。qbcさん何月生まれですか?

qbc:8月。

孝太:僕、1月なんですよ(笑)

qbc:あぁー、学年違い。しかも、私は×××に住んでいるんで、家もご近所ですね。

孝太:僕×××だから、すごい近いですね。

qbc:なんか非常に親近感がありますね。で、インタビューのほうに戻りまして。

孝太:そうですね。過去の話では、ちょっとダークな部分も出しちゃうかもしれないですけどいいですか(笑)

qbc:全くお気にせずに。

孝太:まずは、簡単に生い立ちから。生まれたのは1978年1月6日です。生まれは新宿区の病院で生まれて、渋谷の初台に1年くらい住んでたんですよ。家族構成は一人っ子です。
その後に埼玉県に移って、川口市、川越市と経て、小学校1年から桶川市で、28歳まで過ごしました。その後、東京の吉祥寺に行き、練馬に行ってから、仕事の都合で北九州市に移って5年、福岡で7年。で、2020年の8月に親友の誘いがきっかけで綾瀬に来ました。

qbc:けっこう長いこと九州だったんですね。

孝太:僕、今でこそ普通にお話できるようになったんですけど、こうなるまですごく時間かかったんですよ。子供の時からすごくひねくれてて。小中と、特に中学でいじめに遭ってんですけど、人と接するのが苦手とまで言わないんだけど、ウラを見ちゃうようになってしまって。
友達こそできてるけど、表面的な感じでしかできなくてですね。
それがずっと続いてて、まあでも勉強はちゃんとしてたんで、大学はまあ普通に入って卒業したんですけど、僕とqbcさんは同世代だから分かると思うんですけど、僕は一浪して大学入ってて、就職氷河期だったんですよ。

qbc:そうですねそうですね。

孝太:で、公益法人に内定したのですが、入社する前に、不祥事を起こしちゃったんですよ。もうほんとに国を揺るがすような。でも、氷河期だったから他のところで内定が取れるか自信が無かったんですね。
結局そこに入ったんですよ。ちなみに法人名はちょっとググれば分かるかもしれません(笑)。配属されたのが営業だったんですけど、内部はまあ荒れてました。で、すぐに辞めたんですよ。でも就職氷河期で転職先はずっと決まらなかったんですよ。
その時に交際していた女性もいたんですけど、相手の浮気で別れちゃったりして(汗)。妻子持ちと不倫してたんですよね。それで僕の中で精神的に途切れちゃいましてね。人間不信みたいになっちゃって、こうなると精神も落ちるから、就職も決まらないんですよ。

qbc:なるほど。

孝太:で、2、3年くらいずっと仕事決まらなかったんですよ。で、ベンチャーに入ったんですけど、そこも結構ブラックで、残業手当も出ないし、定時とか関係ねぇからお前出てこいやみたいな感じに言われたりとか、やっぱりもう耐えられんと思って辞めました。もう辞めグセがついちゃってたんでしょうね。
その後、入った会社は、裏業界の会社で、事務求人広告見て入ったら実は全然違う内容で、そこは半年で潰れました。要はガサ入れが入ったのが原因です。

qbc:はいはいはい。

孝太:その後1年間契約で学校法人で働いて、派遣とか入って。
ここからが本番なんですけど、2008年に転職先の配属で北九州に行ったんですよ。これが長く勤めたものの、一番ひどかったですね。この時もう人間関係も全部ボロボロになったんですけど、ここからちょっとダークな話になります。

qbc:はい!

孝太:大学の時の友達とかいたんですけど、最終的に残ったのは4、5人だけでした。当時仲良かった他の友人は、九州に行くって言った時点で左遷だのなんだのボロカス言われたので、縁を切りました(笑)
自分も本音を言えば、行きたくなかったんですよ。東京の生活がすごく楽しくて。でも仕事が選べる状況じゃなくなってて、30歳になっていて、やっと決まったら決まったでいきなり九州行けって言われて。頭、真っ白になっちゃって。
そこでもうかなり落ちこんだけど、もう後がないから選べる状況じゃないし。のちのち語る自分の性格に繋がっていくんですけど、とにかく視野が狭くなっちゃってたんですね、その時は。
ここ行かなかったら、もう自分はホームレスになるしかないとか、前の転職ですごく苦労してたから、なかなか決まらなかったのがトラウマになってて。
そこで、あの、まあ、北九州。製鉄所関連の会社なんですけど、そこに行くことになったんですよ。

qbc:はい

孝太:それが2002年。いや、ごめんなさい。2008年8月ですね。ここで入った寮が本当にもう、三畳一間のボロい寮で(笑)。

qbc:20代後半の時?

孝太:30歳なってからですね。そこでまず寮を見て落ちこんじゃってでも無理してでも耐えなきゃってずっとやってたんですけど、僕は酒があんまり飲めないんだけど飲み会多いし、プライベートが無いからやっぱ疲れちゃってですね、寮を出て一人暮らししたんですよね。

qbc:はいはい。

孝太:職場自体はアットホームで、社員は家族だみたいな感じの支店だったんですけど、でもまあ、それが災いしちゃって反逆者扱いですよ。5年勤めて辞めるまで、反逆者呼ばわりでした(笑)。
マンション自分で借りて、小倉ってとこに住んでたんですが、そこで会社以外の人間と付きあいを持ったんですね。外部の人間と付きあうのは、社内ではタブーみたいな感じでしたが、あえて自分はそこ破って色んなオフ会とか参加するようになって、そこで今も親友って言える同い年の2人に会ったんですよ。
これ、すごく僕の中で人生が変わりました。この2人がいたから九州の生活が耐えられたと言っても過言じゃないです。なんでも本当に話し合えるいい仲間なんですよ。
ただやっぱり僕の中で、望郷の念もあって、実家にすごく帰りたかったんですよね。
それにその企業もまたブラックで、月残業は200時間あったのかな。

qbc:月200?

孝太:そうです。本当は勤務時間は8時半から17時なんですけど、6時に出社して帰るのが23時。それが当たり前で、土日関係なかったし。
そんな生活を半年間続けてたら、2009年9月に身体がおかしくなっちゃったんですよ。精神的にも。最初うつ病とか精神科医に言われたんですけど、これは休職するしかないって考えてるうちに、別の病院にかかった際にうつ病じゃなくて「あんた脳梗塞かかってるよ」って言われたんす。

qbc:はいはいはいはい。

孝太:今も後遺症残ってて、左腕がちょっと痺れるんですよ。脳梗塞にかかった原因は過労にあると思ってるんですけど、会社はこれを認めないし、精神的な病気だと言ったら根性がないんだと言ってきて、でも6ヶ月くらい休職してたんですね。
ただその間に、親、親戚とケンカになったんですよ。従兄弟から「お前は一族の恥だって」言われて、結局縁を切ったんですけど、親戚から出禁みたいな感じになっちゃったんですよ。
今はもう解けたんですが、その従兄弟とは殴りあいのケンカまでいっちゃって。精神の病じゃなくて脳梗塞だって言っても恥だと。
休職してることは許さんって事言って、他の親戚連中からうちの親も責められたんですよ。

qbc:え、厳しい一族ですね。

孝太:会社には復帰したくないって言ったんですよね。でも親からしてみたら一人っ子だったし、仕事ちゃんとしてほしいっていうのがあったんでしょうね、強制的に北九州に戻されました。当時はすごい恨みましたよ。今は何とも思ってないけど。
で、会社も会社でお前は八幡で根性叩き直せってそっちのほうに言って、その時いた上司がまた最悪な奴で、本当ちょっとここからダークになっちゃうんですけど、今思うとそいつホモの気があったんですよ。妻子いるのに。

qbc:はいはい。

孝太:まあ、気持ち悪かったですよ。人のアパートにまで入ってきたりとか。パワハラとか当たり前。私生活も同化しようとして、出たくもないスポーツに参加させられたりとか。
でもこっちは帰る場所ないから、泣く泣く行くしかないし。そういうんでだんだん荒んできましたね。でもさっき言った親友たちが、プライベートで支えてくれたんですよ。
で、会社には転属願を出すも破棄されて、地元採用扱いに変わっちゃったんですよね。給料が下がったわけじゃないんですけど、全国転勤の人間じゃ無くなったから、お前は一生ここに居ろって言われて、帰ることができない状況でした。結果、どんどんどんどん諦めの人生が入っちゃって。

qbc:辞めようとすれば辞められたんですよね?

孝太:辞められましたよ。でも当時は選択肢が無くなってたんですよ。どんどん袋小路入っちゃって。

qbc:気持ちの面で?

孝太:そうです、今でこそ笑い話ですけどね。

2、そしてまた東京へ

孝太:状況が変わったのが2011年の東日本大震災。僕の実家も結構やられたんですよ。当時、両親が、老後は、もうゆっくりしたいと言って千葉に移ってたんですよ。話は前後しますが、悠々自適にやってる時に僕が失業して帰ってくるのが面倒だっったんだと思います。
qbcさんは、震災の時にどこにおられましたか?

qbc:今と同じ所です。日暮里です。日暮里は揺れただけですね。生活は多少普遍になりましたが。一時的に計画停電になったし。

孝太:すごかったんでしょ、買占めとか。

qbc:そんななかったですよ。今のコロナのほうが品薄は厄介ですね。

孝太:まさに両親は千葉の内房にいたんですよ。セカンドハウスで買っていた家が、一部倒壊しちゃったんですよ。で、もう売却せざるを得なくなっちゃって。幸い今の実家は残ってたから、そっちに帰ろうってなって。
で、その辺りですね。もう雪解けって言うか、両親と僕が揉めなくなってきたのが。

qbc:はいはいはい。

孝太:で、当時ちょっと交際してる女性が九州でいたんですが。
ところで、会社から復帰の時に産業医面談の際に「自分は何事もない」ってシナリオ渡されて、お前これ言わなかったらどうなるか分かってんだろうなと脅されまして。暴力も当たり前だし、ましてちょっとホモっぽいやつからいつ襲われるかわかんない恐怖もありましたし。仕方なく言いなりにならざる得ない状態でした。辞めようにも辞めさせてくれませんでした。
で、そうこうするうちに医者から言われたんですよ。「このままいったらほんとに脳梗塞再発するよ」って。それが2012年終わりくらい。脳の定期検診で言われて。すごいストレスで血圧が175いっちゃってるって。その辺りからですね。本気で「辞める」って意識し始めたのは。
でも、会社は辞めさせてくれなかった。

qbc:はい。

孝太:強制的に辞めきったのが2013年の8月。これまで長かったです。
辞めさせないってのも脅しじゃなかったんですよ。千葉にも支店があったんですけど、九州の子が千葉へ飛んだことがあったんですよね。もう耐えられないって。
そしたら連れ戻しにきたんですよね。九州の奴らが千葉まで来たんですよ。
それで揉めたってことを後で聞いて、やっぱりこいつらやるんだと思いました。
もう、そういうんでちょっと精神がおかしくなってしまいまして。
なんかすいません上手くまとめられなくて。

qbc:そのまんまですよね。時系列でお話ししつつ、エピソードをさかのぼって付け足されてるんですよね。大丈夫です。

孝太:ありがとうございます。で、当時付きあっていた彼女のこともあって、辞めても九州残ることにしたんす。

qbc:そういう状況でも彼女はできるんですね。

孝太:いや、そういう状況だから逆にできたっていう言う方もできるんすよ。精神的に参ってて復活して、なんとか支えになってくれたんで。
あのー2018年までですね。7年くらい付きあってました。

qbc:長いですね。

孝太:長かったです。結婚も考えてました。だから僕、帰れなかったっていうのもあったんですよ。本当だったら北九州の会社を辞めた時点で何もなかったら、東京に帰ってたんですよ。
でもその後、1年ぐらい仕事は決まらなかったんですけど、彼女は久留米市だったから近く来てくれってことで、翌年に今度福岡市で仕事見つけて、それで福岡行ったんです。
なんか、僕って、周りに合わせすぎちゃうところがあって、溶けこまなきゃいけないっていうのがすごくあって、本音はね、今だから言えるんですけど東京に帰りたかったんですよ。それをずっと押し殺して、俺はもう帰るとこないんだから、一生ここで生きるんだからって自分で思いこんでたし、そうしなきゃいけないと思ってたから。

qbc:がんじがらめですねえ。

孝太:それで、すごい酒を飲む職場だったから、無理して付きあい酒してたら、自分の不摂生もあったんですけど、急性膵炎かかっちゃったんですよ、2015年に。胆石症で、胆石が胆のうを突き破っちゃったんですよね。今も実は薬飲んでる状態なんですけど。
九州ってよく焼酎を飲むじゃないですか。それが実は一番まずかったって医者に言われたんす。焼酎って胆石を作りやすいんですよね。

qbc:焼酎こわい。

孝太:それ以降、仕事とかに関しても、なんか思うように体が動かなくなっちゃったって言うか、頭が働かないんですよ、すごく。今もそうなんですけど。だからやっぱり仕事ができない人間みたいにすごく言われて。実際、今まで通りの仕事は、なんとかこなすのが手いっぱいになっちゃってて、だから能力的には低くなっちゃったのかなって、思います。
自信もなくなっちゃったってとこもあるし。そういう風に言われ続けてたから。

qbc:はい。

孝太:あと同時に、それまでは自分を犠牲にしてでも仕事に捧げなきゃとか思ってたんですけど、そういう気持ちもなくなっちゃったのは、その辺りからですね。
で、そうしてるうちに寂しさもあったんですけど、いろんな人と交流するようになりました。福岡ってその移住したい土地の中で結構上位ランキングなんですが・・・。

qbc:今も人気でしょ。

孝太:そうですね。北九州と比べると特に街が明るいんです、福岡は。
ちょっと脱線してローカルの話になりますが、北九州だと僕のいた小倉はわりとオープンです。あと門司とか海沿いの港町もオープン。海外との交易が昔からあったから。
代わりに、製鉄がある戸畑と八幡はもうよそ者にはすごい冷たいですよ。住むんだったら絶対に止めた方がいいです。
地元の人はお互いをすごく大事にするんですよ。そこはすごく良い。でもその地元愛が、逆に地元じゃなかったらなんじゃお前みたいな感じですごい冷たいです。
今残ってる友達も小倉と門司の友達なんですよ。今もすごく仲いいし今度こっち遊び来るんですけど

qbc:愛情ホルモンのオキシトシンの効能もそうだけど、愛情の裏返しは対象以外の全面排除ですからね。えんえんと人類がくりかえしてきたことですよ。

孝太:話がそれてしまいました。いろんな人と交流するようになって、とあるミュージシャンのお父様ともお友達にならせていただいて、仕事のこととかアドバイスもらったりして、なんとかモチベーションを維持しながらがんばってきたんですけど、福岡で入った会社も大手傘下の支店だったんですけど、あんまりうまくいかなくて。
で、彼女とも別れて。理由は、向こうは婿養子に入って欲しかったみたいなんですが、僕の精神的負担と体の負担が大きくなっちゃうんですよね。だから最初は彼女が福岡に来るっていう話もあったんですけど、久留米に来てくんないとヤダみたいな話になって、さんざんこじれて別れてしまった。

qbc:うん。

孝太:で、そんな時に埼玉に住んでた叔父が孤独死しちゃったんですよ。独身だったんですが、死体で見つかったのかな? で、遺産整理とか手続きを父と一緒にやってる時に、父からそろそろ帰ってこいと言われて、今42歳なんですけど、これからもずっと九州でやってくのも辛いな、けど生活基盤もできちゃって離れるのも辛いなと思っちゃって。友達も九州の方が圧倒的に多いですし。

qbc:はいはいはい。

孝太:今鹿児島に後輩がいて、今度こっち来るんですけど。
ただやっぱり両親の年齢と、今後の自分のことを考えて、後悔したくないなと思って、苦労はするけど帰ってきた、で今に至ります。
で、東京での転職中に、コロナ禍になっちゃったでしょ。帰った途端あれですからね、3月に。

3、都会と地方

孝太:東京の通勤ラッシュってきついですよね。そういうことも考えつつ転職しました。

qbc:そうですねえ。あれは異常行動ですね。

この動画200万再生ですからね。ギョッとするわこの光景。10年前のアップだから、今はここまでじゃないけどさ。

世界のラッシュアワーコンピレーションあった。

孝太:で、その中で自分が学んだことなんですけど、九州のこと嫌で入ったことない土地だし、もういじめられるんじゃないかと思いながらむちゃくちゃな労働条件下で働きましたけど、でもいい人はいるんだなって思いました。支えてくれた友達二人、元カノもそうですけど、他にもいろんな人に支えてもらったんで。
そこで思ったのは、土地とか年齢とか関係なくて、本当に気の合う仲間はいるんだなと、お互い支え合いあるんだなって、そこはすごく心強かったし勉強になりましたね。
それまでの東京にいた時って、表面的な人間関係しか築いてなかったんですよね。
あと反省点としては、僕はこうだって決めつけすぎてたなって思いました。

qbc:はいはいはい。

孝太:どうなるかわかんないのに、自分で自分の可能性すごく狭めちゃって、損してたのかなって。
辞めたらもう人生終わりだとか、仕事がなくなったらお終いとか。氷河期時代ってのもあったと思うんですけど、今はそういうの無いですね。
次また考えればいいかなとか、嫌だったらもう逃げてもいいじゃないかって。良い意味で、自分を許せるようになりました。
大病2回も患ったっていうのもあるんですけど(笑)

qbc:始めることよりも辞めることの方が難しいですからね。握ってしまったことを手放すほう。

孝太:僕たちの世代って、最初から選択肢が無かったじゃないですか。就活って、選んじゃダメだったんですよ。自分ももう選べる状況じゃないってのがあって、周りが決まってくると焦っちゃって、やっぱりどこかで日本人の横並び精神が僕自身も強くて、決まらないことがカッコ悪いとか思ってきてしまうんですよね。

qbc:私の場合は、そんなに働きたくもなかったし、選択肢とかもあんま考えてなくて、適当でしたね。やらなきゃいけない! みたいなのもなく(笑)

孝太:僕もその方が良かったかなと思うんですよね。勇気がなかったんでしょうね、きっと。

qbc:いや勇気とかじゃなくて興味がなかっただけです!

孝太:余談になっちゃうけど、恋愛とかもそれで見送ってきちゃったんですよね(笑)。
今で言う陽キャ陰キャって言葉あるじゃないですか。僕、陰キャ側の人間だったんですよ。バンドとかはやってはいたんですけど。今は趣味でピアノを弾いて、ギターも買ってて練習はじめたところなんすけど。ベースも弾いてたし、ビジュアル系とか好きで、BUCK-TICKとか聞いてるし。
父親がギターもう52年やってて、ガンガン音楽やれみたいな親だったんですよね。

qbc:なるほどなるほど。

孝太:恋愛の話だと、好きな女性の周りを見てしまうと、あー俺じゃ絶対無理だとかって、勝手に身引いちゃったことが多々あって。今思うとそれはすごいもったいないことしてきたなと思いますね。チャンスあったのに自分で引いて逃げてしまった
保守的というか、環境を変えるのがどこか嫌だったんでしょうね。

qbc:なるほどねえ。ところでなんですが、無名人インタビューのどのあたりに興味を持っていただいたんでしょうか?

孝太:無名人って言葉からして面白そうだなと思ったんですよ。僕、ラジオ番組でミュージシャンとか出て受け答えするの聞いてたりして、自分もやってみたいってすごく思ってたんですよね。
自分は有名人だとかそういう意味じゃないんですけど、有名人気取りみたいな、半分そういうのあります(笑)

qbc:なるほどねー。

孝太:実は今もミュージシャンとTwitter上で交流があるんですよ。某バンドの元メンバーの方とリプのやりとりとかしたりして。
SNSだと、彼らも結構気さくに答えてくれるんですよね。いろいろ話を聞いていく中で、あぁこういう生き方もあるんだってすごく思って。楽しく思えて。
で、そういったことが蓄積されていってyoutubeとか見るようになり、ああ、いつかこういうのに自分も出れたらなと思ったら、まさにこの企画だと思って。ちょっとお恥ずかしい話なんですけど(笑)。これがきっかけです。

qbc:なるほどーありがとうございます。今後の人生ですが、こうしていいきたいといったイメージはありますか?

孝太:あー、それなんですけどね。全然決まってないんですよね。本当になるようにしかならないし。ただ、考えてるのがやっぱり、すごく結婚したいですね。
ほんとは結婚する予定だったけど、それがダメになっちゃってもう独身でいいやって僕は思ってたとこあるんですけど、やっぱりこの歳になってみて、一人で生きていくのが寂しいっていうのがありますね。
子供欲しいとかそういうのあんまないんですよ、もうこの歳になっちゃうと。でも一緒に生活して価値観を共有できるパートナーが欲しいなって、こっちに戻ってきてから思うようになりましたね。
当時の若い頃の自分と比べて、変な価値観で物事を見なくなってきてるから、前よりは大丈夫なんじゃないかなって、いい意味で自分に自信があるんですよ。
だから出会いの場とかもしあるんであれば積極的に行こうと思うし、こういった場でお話をさせていたく機会があければ、どんどんしていこうと。
仕事は今ちょっとグダグダですけど、実のところ宅建の勉強も始めようかと思ってて、興味のある分野があればもう仕事とかプライベート問わずどんどんやってこうと思います。
もう40歳過ぎて人生も後半戦に差しかかってるから、後悔しない生き方をしたいっていうのがコンセプトですかね、今後の。

qbc:なるほどおお。

孝太:あ、qbcさんは結婚されてますか?

qbc:私独身ですよ

孝太:どうですかやっぱり結婚とかって考えます?

qbc:結婚、考えるようになりましたね。ほんとはですね、無名人インタビューは私の婚活なんですよ。
それはさておき、今振り返ってみて、孝太さんお人生は後悔寄りですか? ポジティブですか?

孝太:ああ(笑)。

qbc:良くなかった、悪かったって言ったら、現時点だと基本的に悪く捉えていらっしゃるのかなと。
陽キャ陰キャと言いますが、これって人生の中にトラウマとなる事件があったかなかったかということではなくて、その出来事に対する捉え方、ぽいんですよね。
陽キャは肉親の死があったとして、それを悲しみを知る、克服する機会と感じ、陰キャは何度も何度も思い返しては涙を流してしまうような人生の悲劇としてしまう。
そういう意味で言ったら、孝太さんはどっちでしょうか?

孝太:最近まで多分、引きずられるタイプだったと思うんですよ。でもね、東京に帰ってきて、note始めた辺りからそれが減ってきたかな。向こうでの人間関係が、密すぎたんですよ。

qbc:東京の人間関係の「密じゃなさ」は、はんぱないすよ(笑)
私、父親が死んだとき、秋田で葬式だったんですけど、喪主やってめちゃくちゃ大変でしたもん。

孝太:すっごい違いますね。北九州はほんとに濃いし、福岡もそこそこ濃いけど、僕にはほど良かったかな。
東京に帰ってきてから、プライベートでは新しい人間関係が全く出来てないですからね。仕事以外でまともにお話したの、qbcさんが初めてじゃないすか。

qbc:zoom飲み会とかありますから、ぜひそういうの参加してください!

4、婚活

qbc:孝太さんて、自分でどういうタイプだと思います?

孝太:空気が読めない奴。正直に言うと。喋りすぎっていうか。

qbc:でも人から好かれたりしません? いや、極端に好き嫌いが分かれるんじゃないですか?

孝太:はっきり分かれますね。苦手ってやつは苦手だろうし。でも、お前みたいなノリが好きだってやつは本当にずっと仲いいし(笑)。

qbc:そう感じました(笑)。 そもそも自然にただよう愛嬌があって、さらに積極的なところがおありで、でもそういう積極性がのが嫌だなっていう人もいるから。

孝太:特に九州行ってその傾向が強くなっちゃったから。

qbc:九州の空気でね(笑)

孝太:そうそう。九州の影響すごい受けてますもん。今日はあんまり方言ださんように話してるんですけど。

qbc:けんけん言ってたんですか?

孝太:言うてますよ。僕結構。なんやけんとか、なんとかやとか。12年もいたら完全に博多弁なっちゃいますよ(笑)。

qbc:なるほどね。いやほんと、人間的な魅力は溢れてますよね。

孝太:ありがとうございます!

qbc:前半はとうとうと不幸トークされるのでどうなるのかなと思って聞いてたんですが、その話を終えた後半から、開放的なトーンに変わったので本来の孝太さんの人間性を感じられて良かったなと思いました。
人なつっこさの部分ですね。
あと婚活かな。

孝太:福岡とかは街コンも多かったですよ。福岡って結婚とか推進してますよ。地元でやろうみたいなのが。でも、あんまりないでしょう。こっちって。

qbc:あんまり探してないけど、見かけないかなあやっぱり。東京は別に子供産まなくても人が外から来ますからね。

孝太:こういう言い方は語弊があるんすけど、福岡の女性ってすごいノリいいんですよ。だから割とカップルが成立しやすい。

qbc:では最後に、言い残したこと、ありますか?

孝太:スロースターターじゃないですけど、人生っていくつからでもまだやり直せる、っていうのが結論と言うか、思ったことですね。
自分で可能性を狭めるんじゃなくて、もっと周りよく見ていけば、きっと可能性もまた広がってくる。
これで締めたいと思います。

qbc:ありがとうございます。

孝太:どうもありがとうございました。

あとがき

同世代。私自身は、自分に同時代性があるのかっていうのが、ちょっと分からんのですよね。
私自身は、きっとどの時代にいても私だろうなという感覚がありまして、それはつまり、時代の影響って自分にどこまであるのかというか、疎外感があるんですよね。そんなにさみしいわけでもなく、なんちうかどこにも属していない感じ。
てことで、あまり似ているなとかは思ってなかったのですが、同じ年齢として、健康についてはめちゃくちゃ共感しました。

ほんとね、お酒よくないのよね。お酒は毒。
孝太さんの場合、勤めた会社でいろいろあって振りまわされたかっこうですが、ほんとその後上向いて良かったなと思います。
がんばろうね私も。うんうん。

編集協力:みみみ さん

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