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令和のマスクマン 《令和消毒時代(2)》

── 前回「令和消毒時代」からの続きです。

消毒時代の憂鬱

この文章を書いているのは、日本で新型コロナウイルス感染症の国内感染者の確認があってからほぼ一年後の2021年2月なのですが、一年前を思い出すとかなり遠くにも感じるほど、例年よりは長く感じる一年でした。

あの頃はまだ、私もマスクはもちろん着けていましたが、買い物に出かけたりしてティッシュなどの日用品や多少の非常食にもなるであろうカップ麺だとか、そういうものを外出して買い出していました。現在ではほぼ95%くらいの割合で「オンライン通販」を利用しています。

いまでは懐かしい気持ちにもなります。あの頃はまだ、私もまだ、まだまだ、なにも知らなかったのですよね。

そうです。約一年前から、消毒時代が到来したのですね。その頃は、まだユルく、感染リスクなども目に見えないことなので、まだ外出時についても厳しくなかった頃。私は、多く突っ込まれたのです。もっと安全や危険に意識を向けよと。

せっかく家族や皆のためにという気持ちもあって外出をしているというのに!みたいな気持ちにもなったりしましたね。えー!風呂まで入るのか?とか、さっきも洗ったし、何回うがいするんだよ…みたいな気持ちです。

そして結論『もう!こんなに消毒しなきゃなんないなら、もう、外出したり他者に会わないということを努力したほうが、よっぽどいい!』と、思うようになりました。


消毒時代の生き方

そのようなことを数回繰り返して、私のもとにも「消毒時代」が訪れたわけなのです。それからは、たとえめんどくさくても、肌などが多少荒れたとしても、一日に数回も服を着替えようとも、消毒を大切にしているのですが、それよりも増して、大切にしているのは消毒のやり方ではなく。

消毒時代の生き方は、いかにして「消毒しなければならないような事態に遭遇しないようにするのか」ということがなによりも重要な本分なのだと考えるようになりました。

そして、私がそのような事態に遭わないのならば、その対象となる「誰か」も感染リスクが減るということなのです。そうつまりは「うつらない対策」は同時に「うつさない対策」なのです。

そうして、できる限り人に遭わないための努力を(あくまでも自然に)はじめました。そこで思うのは、遭ってしまうのは大抵、決まった方達なんですよね。

そして、その決まった方達というのは、コロナ禍以前に、よく近所で遭遇していた方達で、平常時ならよく挨拶を交わしたり、世間話をしたりしていた方達なんです。だから最初は、なんとなく悪い気がして、結局避けられずに多少多めに対応しちゃうんです。

例えば平常時のこれまでなら、いつも犬の散歩をしている方に、特に散歩中の犬さんのほうが懐いて近づいてきたりして、私も嬉しくて犬を撫でながら、やはり世間話ってことになっちゃう。そこで対応を変えたらなんか悪いよなぁとか、傷つけたくないよなぁとか。

そういった感じで、ペットの散歩の方々・定年後の方やご老人、あとはいつも挨拶したり多少ふざけて遊んだりする登下校時の小学生集団など、そういう方達に弱いですよね。それもまた自然な気持ちや反応で、こちらも接すれば嬉しいですし、時にはそれこそ親切ということもある。

しかし、それで家に入って、その分だけ多めにまた突っ込まれるのです。で、じゃあ風呂入るよ!ってなったりするわけです。まぁ、風呂に入ればそれはそれでスッキリするんですけどね。

そういう具合に、最初は大変でした。やはり個々の意識は異なりますから、マスクを着けている人もいれば、マスクを着けない人もいる。距離感というかパーソナルスペースも各自で感覚に差がありますから、ソーシャルディスタンスという意味すら理解できない人もいる。

だからこそ「遭わない努力」というか「遭わない親切」が必要なんです。


毒を制するために毒を吐かないで

前回に少しだけ「重度正義中毒」や「つぶやき戦争時代」などとワードを出しましたが、多様性や人権について正義感で解釈しているような時代には、つぶやきとか主張とか、それこそ先述した「文句を言わなければ、言い続けなければ、世界は変わらない」などと思ってしまう方は非常に多いとは理解するのですが、それは自ずと参戦しているようなもので、本当の多様性は「干渉しない」方向にあって、本当は無言でそっと去ればよいのだと思うのです。

ヒッピーブームあたりからずっと変わらない「平和主義活動」「平等理念」のように、ある意味で社会や教育でさえもそれを賛美し「イイコト」として感覚に根付いている世代ですから尚更です。しかし、それはきっと主張を履き違えてしまっているようなもので、その思い込んでいる「平和」というのは敵を生み、不平等の種を余計に育ててしまう可能性のほうが高いと感じます。

つまりは「不満がない」を目指して「不満を述べる」ような、それを主張というつぶやきだと信じ込まされている。私にはそんな時代に思えています。本当に向かうべきは「なぜ不満に思うのか」の追求です。つまりは自己の内面が世界に伝染するようなもので、外部に文句を言うのではなく、なぜ自分は不満があるのかを内部に向き合うのです。 —— なんかまた脱線しています。


話を戻します。前述した『本当の多様性は「干渉しない」方向にあって、本当は無言でそっと去ればよいのだと思うのです。』結論的に、一番親切に思えるのは、結果として「遭わない努力」だと思ったわけです。もっと言えば、遭っても「喋らない親切」や「距離を置くいたわり」のような、つまりは「思い遣り」なんです。

マスクを着けることも、遭わないということも、誘わないということも、この消毒時代には最前線で最善の思い遣りなんです。きっと。

マスク警察やアンチマスク警察も、それも自由ですが、主張よりも主義よりも、近づかないということに意義があるのだと思います。

無論、私もこのように自分の考えを主張しているというのは否めない事実ですが、それは重々認めた上で、まとめると、こんな消毒時代だからこそ『毒を制するために毒を吐かないで』と言いたいのです。

自ら毒を盛るかのように、毒で自分を汚さない、そういうことのほうがもっと世界をキレイにすると思うのです。そして、こんなものは理想論だと多くの方からは言われてしまうことでしょう。

本音としては、このような部分にも、実は前回に先述した『特に昭和からの日本の教育と社会の在り方が根底で関わっていると感じています。』の要因が、大きくあると思います。が、それはまた別の機会に。


消毒時代の行方

…と、そのように結論は、私の中で成立したのですが、いかんせん。もしかしたら私の感覚のほうが少数派なのだと思っています。

現在までに二度にわたる緊急事態宣言下においても、結局、その自粛要請に応えられる国民だけではなかったという現実を、やはり思い知りました。

しかし、到底、現在の資本主義社会では、確かに実現不可能というのは事実ですよね。

そして、現状の令和三年の2月末の現在。ファイザー社のワクチン摂取が段階的に日本国内でも始まりました。今後はどうなっていくのでしょうね。私個人としては接種は避けた方が無難だと感じています。

それでも少しはきっと私と似た感覚の方々も、極々少人数だとしてもいらっしゃると思っています。そういう方とお話が可能なら、私はこう言います。「今後はもっと危険かもしれない」ワクチン投与の結果、マスクを外す人や、外出や行動を旧来に戻してしまう人も増えてしまう可能性があるということです。

つまりは、ウイルスというものを理解されていない層が多いのではないかと私は懸念しています。

消毒時代の行方については、今後も慎重に生きていこうと思っているのですが、もしも偶然でもこの掲載を覗いて、誰かの役に立てたならという気持ちがあるので、ここからは完全にマイノリティーに向けての内容を少しずつ書いていこうと思います。


消毒時代を受けいれて…

前回に続いての内容ですが、今回は少々“違った”展開となって今回で締めくくろうと思っています。

私はなにも時代性などに対する訴えや主張をしたいのではなく、これまでで私自身がそんな「消毒時代を受け入れるまで」を述べてきたつもりです。(脱線話が過ぎますけどね)

今回はなぜ「受けいれられたのか?」を書きたいと思います。きっと始まったばかりでもありますし、SEO的にも拡散的にもなんにもしてないので、たぶん誰も見ていないという寂しいサイトであることでしょうけれど、書いてみたいと思います。

正直、まだ書き方をつかめていない状態で迷いながら模索しながらで、こうして長文になってしまうばかりなんですが、誰も見ていないのなら、いろいろと試せますから嬉しいです。

というか、あまり多くの方に見て欲しいとは思っていないんです… と、思っているんです。大多数とはきっとあまりにも異なるからです。


消毒よりも大事なこと

前述に「—— まだ外出時についても厳しくなかった頃。私は、多く突っ込まれたのです。——」と述べましたが、じゃあ誰になんて突っ込まれたのよ!?ってところについての話をしたいと思います。

まぁ、単純に「ファミリー」に突っ込まれたわけなんですが、帰宅すると『早く消毒したほうがいいよ!』って言われるのです。で、まだコロナ禍としては始まったばかりの頃でしたから、私も意識が薄く「えーうるさいなー」とか、そういう感じで手洗いやうがいや消毒をしたりしていました。

別のある日は、私から「マスクつけてない人がいてねー」とか「○○さんにばったり会って、結構長く話が…」「ゴミ出し行ったら△△さんが来て、マスクしてなくてさ…」「今朝もドア開けたら〇〇さんが居てねー〇〇さんよく居るなー」だとか、そういうことを言うと…

ちょっと待って!と『すぐお風呂入って全身洗ったほうがいい』『なん分くらい話したの!?』『今回はギリギリ危険なところまできてるから、とにかくすぐお風呂入ってよく洗って、しばらくは様子見よう』とか、かなり厳しく突っ込まれるわけです。

もちろん『ああ、今日は大丈夫だね』っていう時もありますが、もう消毒消毒うるさーーーい!っていう気持ちにもなったりもありました「えーお風呂って、今日二度目だよ…」って時もありますから、その結果、先述しましたが、結論『もう!こんなに消毒しなきゃなんないなら、もう、外出したり他者に会わないということを努力したほうが、よっぽどいい!』と、思うようになりました。

正直なところを言えば「だって、こっちがどんなに頑張ったり互いの安全に配慮しても、相手がその気どころか意識さえ無い場合が多いのだから、ほんとまさにトバッチリ感に苛まれてしまう」そんなのゴメンです。それに「誰か」という他者のせいにしたくないですし、すべての事象には必ずそれに相応しい理由や意図があるものです。

たとえ偶然にドアを開けたら○○さんがマスクしないで立っていたとか、そういう事態であっても、必ずそこには自分の理由があるものと私は思っていますし、他者のせいにすると、必ず人生が狭く閉じて堕ちていくという経験上に得た自分なりの摂理があります。それが人ではなくて、例えば細菌でも、動物でも、夫でも妻でも、社会だとか国家だとか政府だとか、そういうものでも。。。

まぁ、ともかく私の場合は「会わない努力」こそが自他共に皆のためだという結論に至りました。これはあくまでも私の感性によるもので、私以外の全人類は私とは全く異なった観念や思考でよいというか、それで当然なのです。それでこそ健全な世界であり真っ当な多様性という概念です。


それぞれの消毒時代

この結論に至る自分は、素直というか、きっとかなり柔軟なタイプの男性なのだと思っています。友人や知人の中では「俺は家族のために外で働いてんだ!」とか「バイ菌扱いすんな!」とか、そういうご主人たちも多かった話を聞いています。もっとも奥様方がどのように夫に接したのかどうかという全容は知ることはできませんが…。

しかし、どうしても夫が私のお願いを聞いてくれないというパターンも非常に多く、中にはウイルスに対する思考の違いによる離婚も多々あるようですね。お願いだからマスクして!帰ったら服を全部脱いで!とか、お願いだから消毒して!という妻の言っている意味自体を理解できずに、きっとただ反発してしまう男の子のままのご主人方も多いのだと感じます。

こういうのは性別による性質の違いの問題なんです。熊に遭遇したら目を逸らすなとか逆に目を合わせるなだとか両方ありますが、真意はいずれにせよ、熊はそういう性質なんです。熊に向かって猫と同じコミュニケーションを強いるようなことと同じです。

いや、例えが現代に適していないかもしれないですね。あくまでも例えですから、なにも男性が熊で女性が猫だとか私は言ってませんよ。昨今ではむしろ逆の社会構造になりつつある気配も感じるほどですから…。例えを変えるなら「羊に向かってパンダと…」とか「鰯に向かってイルカと…」とか、そういうほうがきっと炎上しなくて済むかもしれません。

そしてこういうのもまた性質の違いなだけなのですが、というか性質が違うからこそ異性は惹かれ合うはずなのですが…。 たぶんこのまま行くと「多様性」を訴えながら、きっと人類は『没個性』になるというか、唯我独尊どころか『他者撲滅運動』にすら発展して自滅してしまう気すらする現代…(話がそれました)

そう、性質というか性別で言うなら、こういった未知のウイルスに対する観念や、特に目に見えない事柄や問題に関しては、古来から「女性」のほうが生き残る可能性って高い。そういう性質がありますよね。男性だとどうしても目に見える現実や社会的なルールにどうしても縛られてしまう傾向もあります。

その逆にだからこそ男性は他者のため全体のためという自己犠牲による性質も持ちあわせています。ああ、だから“マスクもつけずに” 危険の中でも勇敢(?)に社会に挑み続けているのかもしれないですよね。根底にあるのは「家族を守る」なのかもしれません。

だけど、矢面に立って犠牲になっても構わない!というのは良いですが、やみくもにでも「挑み恐れずに戦う!」という姿勢を未だに男性的なかっこよさや役割だと思い込んでいる時点で、もはやかなり古い感性なのか、もしくはとても臆病なのかという気もしてしまいます。

間違いなくコロナ禍の今回は「マスクもしてより“挑まない”ほうがなによりも家族などを守る時代」だと感じます。ウイルス蔓延が確認され始めた頃に、高齢の芸能人や高齢の政治家などが「私は負けない!私はマスクをつけたりしない!」とか公言していたりということがありましたが、世代観なのでしょう。しかし、そういう「負けない」とか「俺はこわくない!」ってのが、今は、なによりも迷惑なのですよね。

どうか世の夫たちよ負けてください。というか「負ける勇気を」それがきっと思い遣りですよ。というわけで、どうしても夫が「マスクしてくれない」とか「消毒してくれない」とか、そんな相談や話をよく耳にしたというお話でした。さて、話を戻します。


ヒーローはいつもマスクをつけていた

なんか結局、長文になってしまった上に、このままでは、私が思う「本題」に辿りつけなさそうですので、せっかくですからコロナ禍話をまとめてしちゃおうと思います。(本題はまた次回に)

昨年、とある案件でコピーをご提案したのですが、完成形としては『マスクをつけるだけの《ほんのちいさな思いやり》で守ってあげられる命や心があります。』というキャッチコピーになりました。

私はコピーの企画時ははじめにただただ内側から書き出すのですが、その草案とも呼べない初期の文面の中に、ボツにするには少し惜しかったものがありました。しかしちょっと尖っているというか否定的な半面を感じてしまう文面ではあるので、社会上においてボツであることは明らかな文章ではあるのですけどね。

そのボツの一説とも言える一句を、ここに掲載しちゃおうと思います。



ヒーローはいつもマスクをつけていた …

—— 自分の考えの誇示や息苦しさやめんどくささやかっこわるさなど、それぞれに様々な理由があることでしょう。 そんな自分の存在を守り保つための強さよりも、他者の安全の保安や不安解消への配慮にも気がついてほしい。

自分の正義や正論を掲げるまえに、目の前で恐怖にふるえている人もいるということ。 そんな人たちに向ける優しさや愛情はきっと、自己主張を強く浴びせることではなくて、まずは黙って距離を置いてください。

その人たちが怯えているのはあなたの正義です。——


… マスクをつけない選択をしたつよいひとたちは、マスクをつけることを選んだよわいひとたちを、マスクをつけて守ってあげてください。



ひとつだけ説明をすると、完成形でも、ボツ文でも「守ってあげる」という表現を使用しています。「守れる」とか「守ることができる」などではなく『守って“あげる”』にしたのは、この文章に該当する「俺は強いマン」や「マスクつけないマン」とか「マスク不要マン」もっと言うならば「マスク強要に反抗するマン」とも言いましょうか、つまりは皆「正義マン」だと思うのです。

どういう思想や言動や結果的行為であっても、彼らはきっと「自由と正義のために戦うマン」なのであり「俺は従わないぞバリアー」や「俺は冷静に思慮深く真実を判断するビーム」や「俺は抗う勇気があるんだアタック」などの必殺技を持っており、基本的にヒーロー役に自分を置いている気がするんです。

ゆえに「言われるがままにマスクつけてる」という風に、他者や社会全体がそのように見えてしまう傾向が強い気がします。きっと「守る」では、またなにかに『強制』させられているとか、自分がどうしても『従っている』という意識さえもめばえてしまう可能性もあると感じます。

この説明はこれ以上述べるときっと悪い刺激になってしまうと思うので、この辺までで、あとは皆様の感性や良識にお任せします。

ということで、だから、あえて「守る」ではなく『守って“あげる”』なんです。


消毒時代のマスクマン

そうこうして、素直に、僕は「消毒時代のマスクマンになった」わけです。
さて、結局、今回も本題を書けませんでしたが、あまりに長文なので、消毒時代の話はここまでにしようと思います。

話せずじまいになってしまった「じゃあ誰になんて突っ込まれたのよ!?」ですが、前述の通り『ファミリーに消毒してと突っ込まれた』というのが正解です。

そして本題ですが、どうしてそんなに突っ込めるのか?というところと、じゃあなぜ消毒時代を受け入れられたのか?という話になります。その答えの詳細などは次の機会で掲載するとしても、今日のむすびとして、単刀直入に書いておきます。


つまりは私のファミリーは、謂わば “感染が見えている” のです。

—— いきなりの意味不明な発言だととられる方が9割だと思うので、意味自体が理解不能か、こいつアホだと思われるだけだと推測しています。だからある意味、とても安心しているのです。

そして、このnoteを立ち上げて書き始めた理由のひとつは、そういうことだからです。まぁ、特殊能力者みたいな言葉で言えば、言わんとしていることは理解していただけるような気もしますね。

ただ、受け入れてくれる方は、ごくごく少数でしょうけれど。


さて、消毒時代についての記事はこれでおしまいです。

大変な時代ですが、皆様も消毒時代のマスクマンとして(強制ではなく自由です)お互い新時代へ歩いていきましょう。

お読みいただいた方、ありがとう存じます。

20210227




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