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句読点に、つれづれと。

── 今回は、2018年あたりに書いたものを掲載します。

最近は句読点のないメールなども増えてきました 私感としては違和感がまだあるのですけれど 世代的なものと判断しているので 出来る限り気にしないように努めようとしています でも 古来の日本に戻ったとも言えるのでしょうね

その他のSNSやコミュニケーションツールなどのアプリの影響もあって変化してきたのだとは思いますが、しかし、面白いもので、句読点のない文章を見てから、次に句読点のある文章をよくよく眺めてみると、なんだか「、」とか「。」とかが頻繁に付いている文章の「形」のほうが、なんかやけにおかしく感じてくる。

「、」や「。」が、変な記号みたいで、特にひらがなのなめらかな流れの中にデコボコした「、」や「。」が挟まっていて、それがまた数行に及ぶと、実に変な形の印象をうける。虫食い穴に黒染みのような小さな点々とした異物の挟まってしまった白い綿の布のような、残念な印象。

個人の感覚は十人十色ではあるでしょうけれど、なんだかそう感じることもあります。しかし、やはり句読点があったほうが読みやすいのは確かですし、執筆者の意図や性質もそれぞれ「句切り」には表れるものだと思うので、便利なことは間違いないとは思います。

合理的なルールで進化してきたものであったのでしょうけれど、不思議なものですね。実に、感覚とは。集団的な時代の流れも無意識の中で共通観念や進化があるものですが、これもまた流れや移り行くものなのでしょうね。特に「言葉」というものは、そういうものなのでしょう。

『語学』などという視点から見てしまうと、堅苦しい思考や説明ばかりにめんどくさくなって、もう前例のままでいいよ!と、進化や変化も投げ出してしまいたくなる。それが流行であり、世俗、風俗というものだと思っています。学者が人間や民俗の進化を停滞させてしまうことは多いと、私は思う人間なのですが、同時に学問が文化を護ることも多いので、どっちもどっちですよね。

句読点の話で言えば、単に「英語」に倣って、取り入れた「文化」ともカテゴライズできてしまうのではないかと思うのですが、特に「横書き」として、左から右へ流れて行く文章では、確かに効果的で、とても合理的に感じます。

そんな明治以前は、縦書きが主流でしたから、改行や段落や間隔で筆のままに記すなら、「、」や「。」などは、あまり必要ではなく、感覚的に間隔や改行をすればよいですし、それがまた糸や心を伝え記すリズムにもなって、「、」や「。」の『休符』が存在しないので、書き手の感情の旋律や、読み手の感性のメロディーで、日本語とはたぶん自由で、より人間的で美しいものだったのではないだろうかと、想像したりしている私がいます。

近代からの形式化は、都市化などとともに、多様な民俗を融合し、調和や共通の秩序を必要とした変化の時代にはとても必要なルール設定だったと思いますが、明治時代というのは、文明開化とかいうスローガンにおいて、文化は進みましたが、民俗は壊されてしまったのではないかと感じる私がいます。

安易に取り入れ過ぎたような異国の文化も多いのではないだろうかと、私情も入ってしまいますが、私はそう思っています。そしてまた、日本人の真面目さもあるでしょうから、きっと現代でも不都合なまま、本当は時代や人間にあまり適合していない規定や風習までも、それはルールとして、いまだ続けてしまっていることも多いことでしょう。

特に教育の面では、無駄なルールもさぞかし多いのではないかと、かなりドロップアウト気味に外れて生きて来てしまった不真面目な私から見ると、そんな風に感じることも多いです。教育者になる方の多くは、真面目な方で、ルールをルールとしか捉えずに記憶として学んでしまっている方が多いと感じますから、どんなに無謀なルールでも疑う事もなく、未来を担う子供にそのまま教えてしまうのでしょうね。

そもそも「なぜ言葉があるのか」などというような、自分で考え研究し、開発するということなどの、思考すら湧かないような方がきっと、現代では教育者の試験を受けてしまう社会なのだと思っています。そんな背景ではきっと「句読点は必要か否か」などの論点になってしまうのも仕方の無い程度の問題ですが、そんな議論なら、私は「どっちでもいいよ」と、答えて去ってしまうだろうなと思ってしまいます。

パブリッシングとして、小説などに共通ルールがあるのは、商業的にでさえも必要なことではあると思いますが、そのように「何の文章なのか」や「何を伝えるのか」などによっても、もっと本来は自由でよいものですよね。

「改行や段落を重んじるのは、日本人とフランス人しかいない」とか「日本人の文章を読んで、日本人は全員が詩人だ」などという言葉を耳にしたことがありましたが、擬音や擬人化なども含めて、やはり日本人の表現的感性は、他と比べるとかなりポエティックなのでしょう。

実際は調べてみないとわかりませんが、名詞でも、もしかすると具体的な目に見える物だけではなく「目に見えないもの」の名詞や言語が多いのではないでしょうか。現実、言葉の数も他よりも多いですから、長い期間、文字を持たなかった民俗や種族として、言葉や表現が多いということは、それだけ多くのものや状態や感性を捉えていたということです。

だからこそ自由に移り行くことが望ましいと思っています。しかし、教育の面では、できるだけ多くの言語や表現を伝えることも大事ですよね。そこを大切にしないとそのうち、喜怒哀楽や美味しいや美しさでさえも「ヤバい」と「かわいい」だけに集約されてしまうかもしれませんからね。

ポエジーで言えば、「、」や「。」で感情を表したり、沈黙を表すなども、日本人にはあると感じます。創作文などでは「—」や「…」などのルールも存在しますが、ポエトリーであれば、戸惑いを「…」や「。。。」の数で、雰囲気として印象が異なったり、使用方法は誤りであったとしても「、、、、、」と「。。。。。」と「...」と「・・・・・」では、そこから感じる表現の意図が微妙に変わることもあるでしょう。

それらを使い分けている詩人のような人も、少数ですがたまに出会います。そして、それらのニュアンスや空気感を全く通じない日本人も、現代では結構多くいるのも知っています。よく言われる例が、あの夏目漱石の「月が綺麗ですね」が通じないという話は有名ですが、それがそうなら、その相手とは上手くはいかないでしょうから、伝わらなかったと身を引くのが賢明で、かえって幸福だと思いますよね。

そうそう、今回は「句読点」のお話でした。話が広がってしまったのですが、今回言いたかったのは、実に簡単なひとつの感想だったのです。

句読点が将来もこのまま続こうが、無くなってしまおうが、結論はどうでもよいのですが、そういった自分よりも若い方からのメールなどに接して思うのは、句読点があろうがなかろうが、多少の文面や文体がぎこちなかろうが、感じる事があるのですよね。

それは「思い遣り」や「まごころ的な部分」などが、やはりどうであれ、伝わってしまうものだなということです。そういう気持ちが身に付いていることももちろん伝わりますが、また逆に、言葉ではありがとうと言っているけれど、この人は全く「感謝」という気持ちが無い人だなあとか、つまりは「ひととなり」が見え透いて伝わるものですよね。

真面目さや真摯さなどが、目には見えない美しさのように伝わってくるメールをいただくこともあります。そういう方に限って、職場ではそうでもないキャラで周知されているような場合も多いです。そういう時に私は思います。ああ、あなたの上司や周りの方々は見る目が無いんだねって。

学歴の優秀な経歴や社会的な成功者とか、そういう方の中には、逆に、とてつもなく無礼で美しさの欠片もないようなメールを送信してくる方もいますしね。

本当はもっとそこのところや様々なエピソードなども交えて、掘り下げて書きたい話がいくつかあるのですが、職業上の話もあるので、やはり秘密保持的にいまのところは、お蔵入りにしておこうと思います。

句読点の位置や、有る無しや、言語や文章の正誤とか、そういう部分ではなく、ましてや学歴や知識情報量などでもなくて、人となりの美しさや肌理の細かさとして、どうしても教養や知性というのは、言葉や文章には表れてくるものなのですよね。

そんなことを最近は、とても感じることが多いです。なので、今日は簡単な内容ですが、またいつか、もっと丁寧にそういった事柄を書いてみたいと思っています。

「句読点」の話から、日本のニュアンス的空気感で交流が行われる「日本語」のポエティック感の話のようなことを書きましたが「こぼれ話」の蛇足的な駄文もついでに掲載しておきます。前述の、微妙なニュアンスや表現が理解できないような人もいるという話の続きから。

私は思うのですが、そういう感覚的な表現に理解が及ばない種類の人間が、なんでも規定や固定化されたルールを作りたがる傾向が強いのではないだろうかと感じています。他が空気や言葉の向こうの奥の気持ちや意図を無意識で読み取って関係性を築いていたり、距離感を大切にしていたりするということが、そういう方からは見えなくて、気がつかずに理解できないために、きっと誰もが及ばずに危険にも思えるのでしょうね。だから、ルールを作り誇示してしまう。

よく昔から「日本人はなにを考えているのかわからない」とは言いますが、だから日本人は他国から規定やルールを押し付けられてしまう傾向がある気もします。ルールなど無くても交流が出来ていることのほうが優れていると私は思うのですけれど、そういう方の視点からは、ルールが無いということは無秩序で未開だとでも、きっと思えてしまうのでしょう。

かつてのネイティブアメリカンが侵略されたように、今でも多くの文化が、劣ったルールによって侵略されてしまう現象が続くこの世界です。もっとも昨今のそんなルールとは、平和とか貧困救済だとかというプロパガンダのようなルールです。日本もそうして、国民の知らぬ間に、何兆ものお金がルールを誇示する大国へと未だ流れて消えて行きます。

「グローバル社会に合わせて、主張をハッキリと“英語”で示す日本人を育成するべきだ!」などと、そんなことを言う大人も増えてしまいました。とても残念なことです。もはや致命的です。こういった方達はなによりも必要であろう「アイデンティティー」の意味を絶望的な程に理解していないのです。

悲しい事に、そういう思考レベルの方が教師や士業などになったりするのが現代の日本の社会なのですよね。適正や指針よりも、条件が就職の軸になっている現代ですから、教育も文化も荒廃していくことは当然と言えるかもしれません。

そういう方はきっと「わからない」ということの本質としての本意や意味を、なによりも理解できないまま、社会化された狭い世界が、まるで全てかのような視野や感覚で、この世界の中に生きているのではないかと感じることも多いです。

この「わからない」というのが、実はかなり大切なのだと、私は思っています。詳しくはまた別の機会に述べようと思いますが、たぶん、そういう方々は、なんにでも「答え」や「正解」が数値のようにあるという思考で生きているのではないだろうかと感じるのです。と、これもまた、別の機会に致しましょう。

大袈裟で急展開的に、かなり端折って述べるなら、戦後の高度成長期以降の日本が、本来の人間の侭の自由度とも呼べる表現や感性を、経済的発展という謂わば文明の可視化とともに、地域コミュニティーである「世間」や「風俗」や「伝統」や「信仰」等を、まるで大量生産品を消費するかの如く、合理性と置き換えて捨てて行ったのは、そのような部分がかなり大きいのではないかと私は感じます。

謂わば「文明」を築いて「文化」を失ったと表現できます。かなり大袈裟な表現ではありますが、それを21世紀に入ってからは、SNSや現在の若年層を中心として、次世代趣向かのように「コミュニティー」や「多様性」とかを推奨し、発信し、現在、人々は「文化」を取り戻そうとしているのではないかと私は少し感じるのです。

かつての日本にあった文化を、それを消費するかのように非合理だからと、簡単に伝統や歴史を捨ててしまった世代を親に持つ、その子供達の世代が、知らないはずの、つまりは日本の生きるアイデンティティーを取り戻そうとしている。もっと言うならば、新たに築き上げようと模索している。それを現代に感じます。しかし、それが成功するのかどうかは、わからない話ですが。

きっとそのまた次の世代も、また別の方向へ進みたがっている気がするのですよね。いまは、通過点というか、前例を破壊する時期なのではないかと私は感じているので、いま、構築しようとしている者達は、なんというか、少しまだズレている感があると思うのです。

とはいえ、まだ旧時代の層が厚いですから、いまはまだ、たぶん、いまこれからはこうだ!とかやっているような企画案は、実はまだ旧式の道程でしかなくて、ネットで目立つとか、ただ単純に流行に煽られて「人を繋ぐ」とか「個人が繋がる時代」とか、そこじゃなくて、もっと「繋がる前にやること」があると思うんですね。

もっと真剣に見直したり、跳ね返したり、無視したりすることのほうが先決で大切な時代だと思っています。そう、前例や旧時代のノリに対してです。

とまぁ、このまま続けて書いていったならば、次は団塊世代や年金についてなど、様々なことにケチのような言葉を当てつけたくなってしまいそうなので、しかもそれが本意ではないですしね。もっと詳細に話せば、もっと様々な側面や理由が多くありますから、すべてに善い面も良くない面もあるものが常ですからね。

またいつかちゃんと書きたいものですね。というわけで、こんな話はこの辺で終わりにしましょう。だって、もともとは「句読点について」の話だったのですからね。つれづれ過ぎてまったくもって、無駄話とはこういうものですね。それこそ、ここでピリオドですね。

まぁ「句読点の話」としては、完全な脱線話なのですが、これを丸々削除してボツにするのもなんだかなぁと思い、載せちゃいました。ちゃんと決めてから書かないと、こうしてあっちこっちへ思考は流れてしまうものなんですよね。連想のようにあれこれ脳はおしゃべりですからね。まぁ、随筆とはそういうものかもしれませんが、これもまた本当はルールなんてないということこそが本質なんだと感じます。

そういうことで、また改めて出直しますね。今日はこの辺で。

20180109 2:09




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