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三大欲求を考える(勝手に新説提唱)


三大欲求は正しいのか?

「三大欲求に異議あり!」という、異議提唱というわけでも別にないのですが、友人などとの会話の中で、過去数回、少しだけ話になったことがあるので、簡単に書いてみたいと思います。

定説としては「睡眠欲・食欲・性欲」ということに一般的には言われていますが、改めて考えてみるとどうでしょうね。時代性や環境でも異なるものかもしれませんし、本能レベルまで掘り下げるのであれば確かに「睡眠欲・食欲・性欲」は、優先的ではあります。

大体そもそも、人間はこの手の「三大」とか「七不思議」とか「四天王」や「五大文明」「TOP10」「100の方法」とか、カテゴライズのように数値化やランキング形式で表すことが好きですよね。もはやそれ自体が人間の思考の癖でもあり罠とも言えるので、そんな謂わば「格付欲」や「等級欲」「階級欲」などと呼んでもよいのではないかと思ってしまいますが…。

世の中には、やはり私と同じ様に「三大欲求説」に難癖をつけたがる方も多いようで、その有名な新欲求で言えば「性欲の代わりに『排泄欲』だ」と提唱した方もいるそうです。いやはや「排泄」って確かにスゴイ欲求ですけれど、欲求というよりは衝動ですし、もはや摂理というか、身体の仕組みですよね。これを言い出してしまったなら、排泄よりも『呼吸欲』のほうが絶大ですよね(笑)


三大欲求の定義に於ける最大の過ち

いつ頃から誰がこんなことを定義してしまったのかは知りませんし、正直言って、こういう定義はとてもクダラナイですし、研究や真理追究においては邪魔でしかないと思っています。

これを定義した人は、きっと目立ちたがり屋さんだったのでしょうね。広告的行為でもありますし、こういう意識や思考が一般層へ浸透してしまうと、思考を限定してしまいがちで思考停止にさせてしまうマイナスな効果が危惧される程に、大抵、ろくな事にならないものだと思います。

例を挙げるなら、有名な福沢諭吉さんの「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」の一説も、原著の意図や著者の思惑とは異なり、その部分だけ切り取られ、現代では平等思想の都合のいい道徳的格言として、謂わば「広告的」に利用され尽くされてしまいました。

同じような経緯に至ってしまった言葉に「天才は1%のひらめきと99%の努力」「柔よく剛を制す」「地球は青かった」「情けは人の為ならず」や「有言実行」なども同じ様に、謂わば「広告的印象操作」によって誤解として人々へ浸透してしまったことがあります。

そのように人間や、謂わば受け手である「群衆」や「集団意識」というものは、実に都合のいい不都合極まり無い思考回路であると言えるので、この三大欲求などにしても、些か屁理屈ではありますが、利用するならば「睡眠欲」ならば遅刻等の言い訳としても効果的になってしまうことでしょうし、「食欲」や「性欲」にしても「どうしても我慢が効かなかった」「我を忘れていた」「魔が差した」などの言い分がまかり通ってしまうことになります。

無論、良識点としては、だからこそ予め律するという意識にも繋がることは確かです。


新説三大欲求について「睡眠欲・食欲・知識欲」

前述しましたが、どうしても人間は「三大○○」などの階級のような区分けをしたがります。話の中でも「その理由は三つある!一つ目は…」などと話されると思わず聞き入ってしまうものです。

本当は三つでも四つでもどうでもいいのです。それこそ何百と挙げても良いのです。そこで、どうせならこの際「欲求」も順序化してしまうほうが、人間のためなのではないかと思いました。

順序化する前に、私個人が既存の俗説の三大欲求に対し、ひとつだけ異議として思うのは、それは「性欲」なのです。確かに「種の保存」という本能も兼ねており、人間としてとても大きな欲求を有することは、私も身をもって認めます。

しかし、人間の欲求を3つに限定する時に当てはまるであろうかという点に疑問があるのです。生気みなぎる年頃であった若者の頃の私なら、性欲は人間として三大欲求なのだから大いに欲しようと、疑念すら思いもしなかったでしょう。

しかしそんな謂わば青春も過ぎた現在に立ち、振り返ると、そうでもないのではないかと思えてくるのです。私がそこで「性欲」を上回る人間の三大欲求だと考えるのは、それは喩えるなら「好奇心」知的好奇心と呼んでもよいですが、謂わば「知識欲求」です。

そこで大きく括るならば、俗に言う「欲望」としての性欲にも、この「好奇心」は多大に影響しているとも私は考えます。即ち私の思う三大欲求は「睡眠欲・食欲・知識欲」となります。


「性欲」とはなにを差すのか

新説として「睡眠欲・食欲・知識欲」を挙げましたが、正直言えば個人個人でそれらの順位は千差万別であろうということは、もちろん前提の上です。

その上で優先順位を付け、この際「性欲」も含め「五大欲求」として、最後にまとめてみようと思うのですが、この「性欲」というものはどのように定義されているのかが不明ではありますが、ここでは少しある面を分割して考えるべきだと思うのです。

分かりやすい説明として、恋愛感情下において「手を繋ぐ」や「キスをする」などの謂わば「触れる」という欲求や「見つめる」などの欲求を、どこまで「性欲」とするのかという部分です。また「裸体が見たい」などには「好奇心」も含まれているとも言えます。

ここで例を挙げると「幼児」です。スキンシップや目を合わせることや笑顔などとしてのコミュニケーションを通して、愛情や人間性や情緒の育成などにおいてとても重要なプロセスを送ります。

詳細な解説は端折りますが「触れる」という行為や触覚意識から、即ち「愛」と「快感」を認識するものなのです。そしてそれらの増減により満足でも不満であっても、そこから自身の存在感や世界の認識や自己愛においても形成されていきます。その感覚や快感を「性欲」とカテゴライズしてよいものかどうかという問題があるのです。

別に手をつなぐのは?キスは?浮気なのか、そうじゃないのか、などの話ではありません。しかし人間とは、顕在化や数値化は現在では無理であっても、そのように「目を合わせる」や「肌に触れる」などだけでも、目には見えない多大な情報を共有したり共感し合ったりしながら、実はコミュニケーションをしているとは事実なのです。


「五大欲求」の再定義

三大欲求から「性欲」を除いたもうひとつの理由がまさにこの「どこまでを性欲とするのか」が曖昧に思えたからという理由もあるのです。つまりは、古代ギリシャ時代の哲学には既に定義されていた「愛」についてが、この「性欲」には絡んで来てしまうのだということでもあります。

冒頭で述べた「時代性」においても、三大欲求の捉え方は変化するべきであるという方向で考えるのなら、現代人においての「愛」や「性欲」とは恋愛的な感情と性行為についての、謂わば「エロース」が主体なのだと感じています。

乳幼児の唇や授乳時の母親の乳首の感覚から愛情が芽生えるという心理的説がありますが、即ち、そのような愛も現代的なエロース感覚で「性」という認識で思考してしまうことになによりもの誤解があるのだと言えると私は思うのです。

ならば現代人が「性愛欲」と認識する「エロース」と、簡単に言うならば「アガペー」などの他の「愛欲」を分けるべきだと私は考えます。そこで新たに「五体欲求」として提唱するのが以下となります。

  1. 睡眠欲(心身の休養と回復及び意識と記憶の整理)

  2. 食欲(栄養素と細菌を含む身体的物質エネルギー補給と遺伝情報の補填)

  3. 知識欲(好奇心と進化創造性における思考的追求と想像)

  4. 交愛欲(自己存在認証と愛情の交流=エナジーの補給と授与)

  5. 性欲(種の保存本能とリビドー全般含む)


人間の欲求はなんの為にあるのか

以上ですが、こうして表すと「じゃあ6番目はなんだよ?」という話に展開してしまうかもしれませんね。それもまた人間の「何かしらかの欲」なのだと思えます。

もしかするとそんな「第六の欲求」が本当は一番激しいのかもしれないのが人間なのかもしれません。確かにたまに、そういった現実に生きる上では意味はないかもしれない事柄を延々とお喋りしたり妄想したりすることが人間は多いですからね。お喋りして異論で喧嘩もしたりしながら。

六番目は… それはある意味で「哲学の神髄」と言ってもいい程の「真理追究欲」のようなもので、芸術も科学も学問も社会も宗教等もすべてはこの「欲求」が原理となって文化や文明を成り立たせ、そしてまた争いや支配欲で文明を壊すということを延々と連綿と繰り返して来たのですから。

そんな人間独自の欲求や欲望に、あえて名付けるならばそれはきっと「人間の思考は殆ど無駄欲」となるかもしれませんね。

こうして人間の欲求を考えるとどうしても全てにおいて切り離せずにまとわりついてくるのが「本能」です。しかしながら、そんな「無駄」に思える欲求こそが人間に最初から備わっている、謂わば人間が人間である「生きて存在する理由」かもしれませんので、欲に負けずに、欲とより仲良く、欲を上回って生きて、それこそを無駄にしないで有効活用ができた時にはじめて、人類はやっと「ヒト」になれるのかもしれません。

そして最後に蛇足を言うならばこの「人類」という定義こそが、人類史上最大の曖昧な定義であり、この謂わば概念があらゆる進化や真理追究の妨げになっているものではないだろうかと私は思っています。

20180509 5:35



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