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ライカM3ショックの考察。果たして日本は諦めたのか?


ライカM3ショックとは


 日本のカメラメーカー、ニコンやミノルタの黎明期はドイツ技術者を招き入れカメラを開発し、そして各メーカー「ライカに追いつけ」を標榜にして、それをコピーしながら成長してきました。
 戦後、軍事産業離脱から数年が経ち、様々な工夫と努力でやっとライカに肩を並べたと思われた‥‥その矢先
 1954年4月3日、ケルンで行われたフォトキナでライツ社が新型ライカM3を発表したのです。

 その完成度から、日本のカメラ技術者は脱帽し、結果として、今までの「ライカのコピー」では太刀打ちできないと、その後の舵取りを余儀なくされたのです。

ライカM3

M3ショックで諦めた?


 ネット上に流布されるこの「完璧なM3によって日本のカメラメーカーは追撃を諦め、一眼レフに移行した」と簡単にライカ覇権説が語られ伝説と化してますが、本当にそうでしょうか?
 そして、このM3ショックは今から約70年前の出来事。
 SNS上でしたり顔でこの話しをなんの疑問もなく説いている方がいますし、ライカジャパンの方がその様な説明をしている記事を目にしたこともあります。
 しかし、当時、リアルタイムでコレを体感した人はネット上に何人いるのでしょうか?

私の視点


 私も当然生まれる前の出来事です。
 そんな私はミノルタレンズ収集を趣味にしており、特にミノルタ初の一眼レフカメラ、ミノルタSR-2などに使われたレンズ、MINOLTA AUTO ROKKOR 55mm f1.8の収集に傾倒した時期がありました。
 そして、その時代背景などを調べました。

MINOLTA AUTO ROKKOR 55mm f1.8(AR-1型)

 このSR-2開発に至る経緯こそが、このM3ショックで流布される風評に疑問を抱いたきっかけです。
 また、歴史を調べる過程で、リアルタイムで体験した方の著書を購入するに至りました。
 このnoteに記載されてる内容は、当時、M3ショックの只中に試作製造にあたられていた技術者が自らの体験や各メーカーOBからのインタビュー、各メーカーの社史を調べた結果を出版しており、その著書、そして、カメラ雑誌の記事を元にして考察しています。

参考資料

 このnoteでは、メーカー名を「ミノルタ」や「ニコン」と呼称していますが、当時のメーカー名は「千代田光学精工株式会社」や「日本光学工業株式会社」になります。長文になるので省略して呼称しています。他メーカーも同様です。

M3ショック前日譚

 さて、その様な暴風吹き荒れる直前の日本の主なカメラメーカー、ニコンとキヤノンがライカ追撃戦を展開していました。
 キヤノンは1952年にⅣSb型という傑作機を販売、
その改良型を発売するまでの2年間で3.5万台を生産。価格はライカの半額程度でした。
 全体的に豊富な交換レンズ群を揃え、ライカを上回るトータルシステムを構築していました。

キヤノンⅣSb

 ニコンは1950年、朝鮮戦争勃発に伴い、『ライフ』誌の専属カメラマンがニッコールレンズをライカに装着し、または、ニコンSを使用し、他カメラが作動しない極寒の環境でも正常に作動する等、アメリカでプロから高い評価を得ました。
 そのカメラマンが使用して高評価を得たニコンSも、ファインダー倍率や画面サイズが国際標準に合わず、改良型のS2型の発売直前でした。

ニコンS2

 ミノルタは1948年に発売されたミノルタ35を改良を加え、モデルチェンジしながら販売を続けていましたが、主流は二眼レフやスプリングカメラでした。

ミノルタ35 1型

M3ショックの対応

 さて、ここからが本題です
 私が疑問に思ったのはミノルタの動向です。
 ミノルタは高級レンジファインダー機開発に着手したいと考えていた矢先に、このM3ショックを受ける事になりました。
  前述の著書でも、各社すぐにM3を購入して分解し、その完成度の高さに驚愕したと、更に、技術者にM3の何が凄いかと問われれば、「何もかも全て」と回答するだろうと述懐しています。

 そんな衝撃からしばらくして、ミノルタはM3の様な最高級レンジファインダー開発に舵を切ったのです。
 以下がその流れになります。
 1955年12月、ミノルタ本社設計室にて開発スタート会議
 1956年中頃、新型シャッター試作品完成
 1957年初旬、カメラ試作品完成
 1957年3月、田嶋社長セールスの為に渡米

 「M3」のシャッターと同等の試作機が出来て、元貿易商の血が騒いだ社長が、自らカメラを首に下げて売り込みに渡米したのです。

ミノルタスカイ


 そして、社長帰国後、有名な一眼レフカメラへの方向転換となります。
 方向転換の原因は、ミノルタの米国代理店社長や現地駐在員から
 『ライカの終焉と一眼レフ時代の到来』
を進言されたと言われています。
 社長の帰国後、すぐに一眼レフカメラ開発に方向変換して、スカイ開発陣がそのまま一眼レフ開発に移行。
 そして1958年10月にミノルタ初の一眼レフカメラ『ミノルタSR-2』が登場となります。

ミノルタSR-2

各社の対応

 ニコンやキヤノンはどうしたのか?

 ニコンは期待の新製品ニコンS2を前年10月に生産開始しており、発売のゴーサインを出した直後にM3ショックに見舞われます。
 このまま販売できないとの判断からファインダーやフイルム巻上げ機構等の改良を余儀なくされました。
 その結果、このニコンS2は5万台というニコンのレンジファインダー機の中で最多の生産数を誇る名機となりました。
 そして、1957年、M3と真っ向勝負に出た最高級機ニコンSPを発売したのです。
 ニコンはこのSP開発と並行して、一眼レフも開発していました。
 ニコンの技術者、更田正彦氏が
 「距離計式、一眼レフ、それぞれ異なる目的のカメラだから、将来は共存すると考え、部品をなるべく共用して、工場では同じラインで生産したいと考えた」と回顧しています。
 この並行して開発していたのが名機ニコンFになります

 キヤノンはどうか?
 売れていたⅣSb型に陰りが見えていましたが、同社のミュージアムを覗くと、M3と同時期に発売されたIV Sb改(4Sb改)型で「日本のカメラ工業力を世に問う垂涎の最高級機であった」と述べてます。
 しかし、その後1956年発売のV型はイマイチ、その後、1959年に発売したP型が10万台売れたヒット商品になります。
 P型は高級機の大衆路線カメラ。
 つまり、キヤノンは高級路線から普及機に方向を変換して成功を得たのです。

ライカM3はどうだったのか

 今でも伝説的に語られるライカM3ですが、米国市場では成功していたのかは疑問符が付きます。
 なにより447ドルと高額で、技術者の称賛とは異なるセールス側の一面があり、米国市場が日本カメラに目を向ける遠因となります。
 当時のニコンS2が345ドルとライカM3の8割弱で売り出されていました。
 プロは堅牢で安いS2を購入し、M3はハイアマチュアの金持ちが買うカメラという相場が決まってしまった様です。
 日本国内での価格を、記録のある当時の大卒銀行員初任給を基準に計算すると
  ライカM3(1954年)当時の日本価格約28万円
  銀行大卒初任給5600円、現在23万、約41倍                                =1148万円
となります。
 この計算を元にすると、ニコンS2も十分に高価ですが・・・

一眼レフというカメラ

 一眼レフカメラの歴史は古く、ドイツのイハゲー社が1936年4月に発売した『キネ・エキザクタ』が世界初の金属製35mm一眼レフカメラとされています。 
 1946年、ハンガリーのガンマ社から世界初のクイックリターンミラーカメラ『ドゥフレックス』(デュフレックス)が販売され、アイレベルファインダーなど、以降の一眼レフの基本構造をなしていたものの、冷戦の影響で西側諸国では日の目を見ること無く、200〜500台を生産したのみでした。
 それまでの一眼レフはシャッターを押すとブラックアウトする弱点が存在しましたが、それを解消したのがクイックリターンミラー機構付き一眼レフカメラになります。

 戦前のミノルタのレンズやコニカのレンズを作っていた旭光学の松本社長は戦後、自社でカメラを作りたい、それも一眼レフを作りたいと考え、開発を進め、M3ショックと同じ1954年にクイックリターンミラー機構を搭載した一眼レフカメラ「アサヒフレックス IIB」を販売します。
 レンジファインダーカメラの弱点、超望遠やマクロ撮影が苦手という構造上の弱点が一眼レフにはありません。
 つまり、一眼レフ最大の弱点が解決されたのと同時に、レンジファインダーカメラを含めた「カメラの弱点」をクリアしてしまったのではないでしょうか。

結論

 いかがでしょう
 日本を代表するニコン、キヤノンはそれぞれ、M3に対抗するレンジファインダー機を発売しています。
 そして、ニコンは真正面から勝負を挑み、最高級機を登場させ、キヤノンは普及機に活路を見出しています。
 ミノルタと言えば、前記のとおりで、真っ向勝負を挑もうとして、ミノルタスカイを完成させましたが、市場の動向を読んで発売前に一眼レフに移行しました。
 私は個人的に、このミノルタの動向、つまり、影響力の強い米国の市場が、高級レンジファインダー機から離れ、一眼レフが席巻する未来を見据え、コレを求めたのが各社が一眼レフに舵を切った最大の要因と確信しています。
 しかし、これはミノルタ以外の動向を裏付ける資料等は確認できなかったので、個人的な意見に留めます。

 結果的に、各社ともM3登場に圧倒されつつも、持ち前の対抗心に火を点け、同じレンジファインダー機で対抗する道を模索した。と言うことが分かるかと思います。
 そして、同時期に登場したクイックリターンミラー付き一眼レフカメラによって、欠点の残るレンジファインダー機と決別し、一眼レフ開発に舵をきって、現在に至る日本カメラ盛況の足がかりとなったのです。

『完璧なM3の登場で追撃を諦め、一眼レフに舵を切った。』
ではなく、
『レンジファインダー機として完成されたM3が登場して衝撃を受け、それぞれ対策を講じて勝負を挑んだ。しかし、同時期にデメリットを克服して登場した一眼レフが優れていたので、そちらに舵を切った。』が正しいのではないでしょうか。

 引用元


神尾健三著
「めざすはライカ!」
「ミノルタかく戦えり」

朝日ソノラマ
「クラシックカメラ専科No12ミノルタカメラのすべて」

枻出版社
「マニュアルカメラシリーズ15ミノルタカメラのすべて」

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