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顕在意識とプシュケー 

 はじめに

 この文章を記述したのは専門家ではなく、在野のモノ好きなんだなっ。


 とある本によるとね、人間の物質的意識の中にプシュケー(プシケ)と呼ぶことが出来る部分がある。これはね、気質や道徳意識を創る「あらゆる精神的営為や感情の貯蔵庫」なんだけど、ここには各人の感情や精神的態度が収められている。人間種族のあらゆる情緒はすべてここに端を発していて、プシケはなんとまあ、貯蔵庫(まあ冷蔵庫や港町7番倉庫の仲間だよね)であるにも関わらず「感受性」をそなえているとなっビックリしたあ。
 因みに霊的意識サイドの対応する部分のことはガミートと呼ばれ、人間種族に生命力や高次の意識レベルに於ける思考力を伝達したり生んだりする「銀の玉の緒」と呼ぶひともいるんだけどね。

 でね、子供の頃は社会のネガティブな側面からプシュケーは十分に保護される必要があるんだけど、現在の状況ではネガティブな状況そんな感情を体験せずに成長するのはとっても難しいのね。必然プシュケーも傷つきトラウマなんかを幾つか抱えたりもするの。

 このプシュケーの病はネガティブな性質の感情のとても高いレベルの蓄積とかで、傷ついたプシュケーの再教育には途轍もなく、ながい年月がかかるんだね。

 例えばだけどアルバイトでもして時間を切り売りするでしょフツーに。物質意識では「時給よかったから嬉しいな」と考えることが出来てしまうけれど、霊的自己の顕在意識ではそんなことに騙されず本質的に傷ついてしまうのね。簡単に言うと自分を数値化して切り売りして糧を稼いで(まあ唯物的かな)しまったことに。そしてプシュケーのほうは「今日のしごとも辛かった、あとは焼酎をあおるだけ」とかとかね。

 ゴホンっ煙草でも吸ってこようかなっ。

 こころ(意味は定義せず)の不健康全般の原因は、物質的意識の非論理的思考法にをも原因をみることができ、ゆっくり健康な情緒をむしばんでいってネガティブな想いを固定概念にしてしまうこともあったり。まあこういう要素、精神的営みもプシュケーが傷ついてゆく理由のひとつにあげることができるんだなっ。

 さてっと、この傷ついたプシュケーの治療方法を考えよぉっとで。

 取りあえずなんじゃが、自分の身近の関係性が深い実生活上で関わる人達のパーソナリティについて今いちど考察をしてみること、えっ。
 その人のことに想いを巡らせたときにどんな感じ(暖かいとか重いとか)がするか、聞こえがほんとにとっても悪いんだけど水面下に隠されている感情は無いか、できる範囲でね、想いを巡らせてみるの。深夜とかみんな寝静まった頃とかがおすすめかなっ。
 っていうのは、無力感や重度の鬱などの原因が感情的な関りの深い身近な人にあるケースがまあ、たまにあるのね。
 とり巻く社会が人間にとってとても残酷でしんどい仕組みでとかね、「外」にプシュケーが傷ついてゆく理由があることって普通にあることだし云々。
(他人との感情のコード(紐のこと)については後日詳しく書くおっ)

 まずこれって間違いであるのでは、というやりかた方法なんだけど、クエ療法というものがあってね、こころの病気である人が「私は良くなる、こころの病気がなおる」って顕在意識の想念で思い込むことによって治療を試みること。で、これはプシュケーが傷ついてこころが本来ではないひとの場合は無意識の強烈な反発にあい失敗する。無意識のほうが賢く真実を知っているので。

 でね、時間の経過と愛がすべてを癒す(ローラニーロ弾き語る 米国のシンガーソングライター)というのもあるけれど、とってもよいのは話を親身になって聞いてくれる親友。そんな友達が友情や同胞愛をもって忍耐強く関係を持ち続けてくれるということ。
 つぶやきを誰かが読んでくれていた位じゃ、「傷ついたプシュケ」には本質的には届かないよな気がするんだよね。プシュケーは言語的一辺倒な存在ではなく、独自の感受性をもそなえているのだから。
 利己的な段階までいってしまって変質してしまっているエゴ自己愛(往々多々ある)ではなく、健全で自然な自己愛のちからと作用をますは信じる、とかのほうが確かさがあるような気がするんだよね。

 物質意識の潜在的エリアでの固定化された思い込みが、微細的生命力ってとでも言えばいいのかなあ、瞑想時に接することのできるエネルギー流(物質的サイドではない)ナドで治療されてゆくというのも前後比較的な観察によると(個人的実感による見解だが、それ系の本でも記述があり)あるけど、何年間かかかるような。お気楽な方法もあるのかな。
 そこに触れる機会があるようになればまあ、顕在意識の思考はとても繊細な性質のものに変化してゆく。前文に関しては、クリシュナムルティがあんなに繊細極まりなく思考を記述できたのも、なんか少しうなずけるんだよね。
 つづきね。ゾハールって呼ばれることがある普遍愛的生命力的領域のひかりのことなんだけど、そのもとではエゴ個意識って消えるというか無いっていうことがわかるのね、静謐と観照する意識だけが存在するようなっていうか。でもさあ、よく瞑想って間違ったとこに行っちゃうんだよなあ、んん、難しいなあ。
 そんな感じのエネルギーの流れにふれることでのヒーリング(インナーチャイルドのとかね)は巷で昨今大流行りですよね。

 そういやあ、スピ系畑ではご存じの方々が多いアフィアメーションってものある。自己に宣言することなんだけど、個人的には翻訳モノの書籍で効果を感じたことはあまりないような。「芸術や自然の豊かさ生命力に接することにより、わたしは子供の頃のような天真爛漫なこころを再構築します」とかね、無責任な例文を書いてみたけど。傷ついているという事実を迂回して遠回しによい作用がおよんだりとか、アルなのかなあナシなのかなあ。

 もひとつ、ズバリ願望夢に浸るコト。子供の頃から個々が抱え望ましく愛すべきものとしてある、その空想の世界にもうなんとまあ好きなだけ居ること。これはすべてのひと人類に推奨されています。

 ユーチューブとかに、こんなのもう(/ω\)イヤンなるだけ色々あるから。


 よい一日をだねっ。

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