2時22分の憂鬱③
その病院では、精神神経科の保険診療の一つとしてカウンセリングがあり、予約をすれば隣の診察室で受けることができた。
私を担当してくれるのは、それほど年齢の違わない、若い女性のカウンセラーだった。
「はじめまして。これまでのことを、いろいろ聞かせてくださいね。これからのことは、一緒に考えていきましょう」
カウンセラーは爽やかな笑顔を見せる。ショートカットに白衣。いかにも仕事ができそうな明晰な口調。私は初対面の時から、少し気おされていた。
カウンセラーは傾聴してくれるけれど、勝手に話をまとめたり、思考を誘導したりはしない。私が口を開くまで、じっと黙って待っている。
私は、幼少期の記憶から順に、思い出しながら少しずつ話した。
気分が乗ってきて、あれもこれもと思ったところで、あっという間に50分が過ぎてしまう。
週に一度、カウンセリングを受け、処方された薬を飲みながら、私はどうにか日々を過ごしていた。
仕事はキャンセルすることが増え、受注もますます減っていた。出口のない袋小路の中で私は、貯金を崩して生活しはじめていた。
まだ元気だった頃、仕事の打ち合わせは大抵、酒席がセットだった。そして私一人が女性、というメンバー構成になることが多かった。
その場にいる女性は、グラスや皿が空にならないように気を配ることが当たり前だとされていた。
酒席では当然のように、肩や膝に手を置かれる。デュエット曲を強要されて、性体験を執拗に聞かれる。私は常に、手近な接待員としてみなされた。
私が特に魅力的だったわけではない。お金を払って得る性的なサービスを、立場を利用して無料で手に入れたかっただけなのだろう。そういうことは、どこでも公然と行われていた。
「今度ゆっくり⋯⋯」「この後二人で⋯⋯」「上の部屋を取ってあるから⋯⋯」
繰り返されるセクハラ行為を、決してプライドを傷つけないように、何とかやんわりと断る。名のある企業の部課長でも、個人事務所の社長でも、大差はなかった。
カウンセリングの回数を重ねるうちに、徐々にカウンセラーとも打ち解け、私は少しずつ、リラックスして話せるようになってきた。
カウンセラーはとても明晰で、言葉の一つ一つにセンスがあった。
重い気持ちで診察室に入ったのに、話しているうちに気分が上がることもしばしばで、50分では時間が足りないくらいに感じはじめていた。
そんなある日、何かのきっかけでカウンセラー自身の話になり、彼女が大学院を卒業しているということを何気なく口にした。
私より少し上の世代で、学歴の高い女性はそんなに多くなかったけれど、専門職なのだから特に驚くことではない。
けれどもその瞬間、私は酷く打ちのめされたような気分になった。
⋯⋯あぁ、私はこんなふうになりたかったんだ!
その時不意に、そんな思いが明確に頭をよぎった。
具体的な職種はともかく、豊富な知識、知的な会話、社会に貢献しているという自信に満ちた笑顔、そんなものを手に入れたかったのだ。
思えばそれは、単なる僻みや妬みだったのかも知れない。大学進学さえ許されなかった私は、大学院という学びの場を率直に羨んだ。
格差社会などという認識もなく、今のように親ガチャなどという言葉もなかったけれど、そもそものスタートラインから違う人の、満ち足りた職業生活が、ただただ羨ましかった。
「フリーランスの実力なんて、どれも大した違いはない。それならちょっとでも楽しく仕事できる子を選んで発注した方がいい」
そう明言する人が、いくらでもいる業界に私はいた。
仕事に対しては、独学で人一倍、努力を重ねてきた。たくさんの本を読み、劇場や展覧会に足を運び、そうして作り上げてきた実績を評価されてきたつもりだった。
けれども結局、私は、大人たちの掌で、くるくると回っていたに過ぎず、努力が報われたわけではなかったのだ。
世の中の景気が冷え込み、余分な予算がつけられなくなると、真っ先に切られるのがフリーランスの私たちだった。
私は少しずつ、確実に、心の柔らかい部分を削り取られていたのだろう。
その時にはわからなかったけれど、組織に属さず、守られずに仕事するということは、何の保証もないばかりか、様々な危険と隣り合わせだったのだ。
この日を境に、私の中の何かが小さく壊れた。
私はまた、起き上がれず、何もできず、一人、自宅兼事務所の狭い部屋の中で泣いて過ごすことが多くなった。
そのくせカウンセリングでは、さも前向きに考えられるようになったかのように振舞った。
浮腫んだ体を引き摺って、週に一度のカウンセリングに通う。起き上がることも、着替えることも辛く、部屋着のまま眠り、そのままの服装で病院へ出向く。
私は大量の処方薬を、ビールで流し込むようにして飲み、ろくな食事を取らず、浅い眠りと酷い悪夢とを繰り返していた。
それはもう、生きているとは言えなかった。まだ死んでいないから、生きているというだけだった。
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