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かわいそうな人

久しぶりに会った学生時代からの友人が、ひとしきり思い出話をした後、ため息まじりに言う。
「ちえって、本当に、かわいそうだったよね⋯⋯」

私は曖昧な笑みを浮かべて、アイスティーを一口すする。
そして、あぁ、ずっとこんなふうに「かわいそうな人」だと思われてきたんだなぁ、と今更ながらに思う。

「かわいそう」とは

弱い立場や逆境にあるものに対して同情し、何とか救ってやりたいと思うさま。同情やあわれをさそうさま。

デジタル大辞泉より

ということらしい。

確かに私は、愛情いっぱいに育てられた、とは言い難い。
思春期にいじめられた経験もあれば、生活にとことん困窮したこともある。
幼少期からのアトピー性皮膚炎や、成人後の気管支喘息。うつ病をはじめ、たくさんの名前がついた精神疾患。
どれもこれも、同情やあわれをさそうのかもしれない。


そういう私だって、例えばユニセフのCMなどで、瘦せ細った乳児の虚ろな瞳を見たら、咄嗟に「かわいそう!」と思う。

ニュースなどで、痛ましい交通事故や自然災害の一報を聞いた時もそうだ。
悲惨な映像に目が釘付けになるし、「かわいそうに⋯⋯」と思いながら、しばらく続報が気になって仕方ないこともある。

「かわいそう」と思うこと、すべてが悪いわけではない。
他者への関心の入り口として、「かわいそう」という感情は時に、大きく人の心を揺さぶる。

飲み水を求めて毎日、数キロの道のりを、何往復もしなければならない砂漠の少女。
深刻な飢餓によって、生まれてすぐに命を落とす子どもたち。
教育を受けることが許されず、まだ幼いうちから結婚と出産を強制される少女たち。

きっかけは「かわいそう」という同情であったとしても、その中にわずかにおごった感情が潜んでいたとしても、知らなかったり、無関心でいるよりはずっといい。
これまで私は、そう自分に言い聞かせ、漫然と信じてきた。

だけど、それって、どうなの?


思えば幼い頃、周りの大人たちから「ちえちゃんは、かわいそうねぇ⋯⋯」と言われることが、私はとても嫌だった。

なぜなら、その「かわいそう」の理由が、
よその子と違ってお母さんが病気だから。
普通と違ってお母さんがいつもいないから。
女の子なのに全身、酷い湿疹だらけだから。

たぶん私は、これらの前置きに過敏に反応していたのだろう。
幼くても幼いなりに自尊心があり、同情されることは屈辱だった。
だから「かわいそうねぇ」と眉を寄せた大人たちの表情は、否定的なニュアンスとともに深く心に焼き付いた。


人生のある時期まで、たとえ周りの大人たちに何と言われようとも、私は自分のことを「かわいそうな人」だとは思っていなかった。

私が小学生だった頃、大抵の家庭に普及していた固定電話が、家にないクラスメイトがいた。
私のうちにあるようなピアノや雛人形を、欲しくても買ってもらえない、と嘆く友達もいた。

両親が共働きのクラスメイトから、ちえちゃんは、お母さんが働いてなくて羨ましい、と言われた。
母子家庭や父子家庭の友人からは、両親が揃っているだけで十分、ちえは幸せなんだよ、と説かれた。

私が父から大学進学を一蹴された頃、高校進学を諦めて妹の学費を稼いでいる同級生と出会った――。


彼ら彼女らは「かわいそう」で、それに引き替え、私は恵まれている――そんな発想が長く、私の中にあった。

いつも誰かと比較しては、
「私はきっと、生まれながらに恵まれているのだ。だから、不平や不満を口にする資格はないのだ!」
と思い込んでいた。

いや、だから、それって、どうなの?


人は、「恵まれた人」か、「かわいそうな人」か、どちらかしかいないのだろうか。
そんな単純な二項対立ではなく、どんな側面もその人の人生の一部であり、総じて歴史であるはずだ。

誰かを理解する時に大切なのは「相手に共感すること」なのだそうだ。
けれども私は、しばしば共感するつもりで「かわいそうに。大変だったでしょう……」と同情をしてしまう。

それはもしかすると無意識で、自分の感覚を相手に押しつけてしまっていることにはならないか。
 
「私の目で見て、私の耳で聞き、私の心で感じたこと」を相手に当てはめて、共感したつもりになって同情していたのではないか。


かつて、うつ病を発症し、自分の半生を振り返った時、私は自分を「かわいそうな人」だったのだと認定した。

それは私にとって、一度は通過しなくてはならない必要なプロセスだった。

だけど。
もうそろそろ私は、「かわいそうな人」を卒業しようと思う。
自分で自分を、小さく囲うことはやめようと思う。

そして。
「恵まれていて、ごめんなさい」も、
「私、こんなにかわいそう」も、
どちらももう、いらない。

だって。
私は自分の足で立ち上がって、前に向かって一歩を踏み出したのだし、そのおかげで、これまで見えなかった素敵な景色にも出会えたのだから。

「生きているだけで素晴らしい」という境地には、まだ到達できていないけれど。

砂漠の少女が、頭の上に水瓶を載せて、まっすぐに前を見据えて歩いていくように、私は、私の目の前の道を歩こうと思う。


転んだらまた、起き上がればいい。

すでに私は、起き上がり方を知っている。



だって心はもうわかってる
自分らしくってこと 素直に生きること
ただそれだけで良いはずなのに
それが一番難しい生き方
なんて無情…

故郷の友よ 答えは出たかい
「幸せ」と呼べる
涙流せる場所はあるかい?
もう帰ろう

あした天気になれ ちょっと雨宿り
君の前で泣いてもいいかな ねぇ

憧れ描いた夢は ちょっと違うけれど
この場所で戦うよ
倒れたって何度でも立ち上がれ
明日の☆SHOW

明日の☆SHOW  福山雅治


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