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朝の記録 0917-0919

0917

 起床。当然のように外は闇、5時10分。12月に向けて日は短くなっていく一方なのだよな、ということをふと思う。この暗闇は延びていく。
 最近他の人のnoteをまた覗くようになって、興味が外側へ広がっていくようで良い傾向のような気がしている。内側に眼を向けることと内側に籠もることは全然違っていて、私はついつい後者になりがちな傾向にあるのだけれど、それってめちゃくちゃつまらんというか楽しめていなくて非常に勿体ないしnote自体もまだよくわかってないことが多いからサークルを覗いたりしていたけどぴんとくるものに出会わなくてうーんとなっている。まだ見ぬ面白いものを探しに行こうと思って、そういうものに対して気軽に身軽に軽やかにありたい。そうしたことを大切にしていないと好奇心が死んでいって人間としていよいよ死んでいく、不要な虚栄心の奴隷になりたくない。なりたくない、やりたくない、をやめていればいつか健全な人間になれるのだろうか。
 それから今までゴシック体にしていた自分のページを明朝体にしてみたりいろいろといじっていてふとサムネイル一覧を見た時に雑然としていて驚いた。朝の記録のサムネのことである。統一感を持たせて美しく整えたくなった。その日その場の気分で色を選んだり遊んだりしているから雑然となって、それはそれで面白くもなったりするような気がするけど統一感多少はほしい。

 職場が全体にばたばたしていたのだけれど昨日少し落ち着いて、その落ち着いた瞬間に部署上司が涙していてなんというか意外だった。意外な人の涙だった。この人も人間なんだと当たり前のことを思った。涙は安易にひとの感情を昂らせるというか集中させるというか、大丈夫かな、と心配になった。でもしんどかったのは当たり前のことで、休みの日でも出勤したり夜遅くまで会議していたり、身体的にも精神的にも追い込まれることは当然といえば当然のことだけれどそういった弱さをあまり外側に出してこない人だからやっぱり意外で、なにも知らなかったんだな、と実感する。立場も年齢も差がありすぎるし表面上の付き合いというか最低限の仕事の付き合いしかしていないし多くの人に対してそうだけれども、そのひとりひとりが人間であるという当たり前のことを思った。やっぱりどう考えても全体的に疲弊しているのは事実だった。気を張り詰めていて毎日顔が死んでいる。助け合い、ということを繰り返し言われていてそれが重要であることは分かっているけれど、余裕がないのはみんなそうだった。優しくなるには余裕が必要で、誰もが助けてと本当は叫んでいるように思えてきて、もう、いろんな声にならない声を想像してしまってそうしたときとても疲弊してしまい、声になっていない声のことを想像するのはよせと思うのにいちいち想像してしまう。全体的に健全ではない。
 自分も多少なりとも疲れているんじゃないかという気もしてだから今度の連休を奇跡的にきちんと三連休としてとれたので、旅行欲との相乗効果でゆっくりできる旅館とか探したりしたけれどなんか全然ぴんとこなくてやめた。結局本を読んでいそうな気がしている。連休中に本屋は行こう。
 そろそろ小川洋子に戻りたい気がしているが、小川洋子ストックは「アンネ・フランクの記憶」しか今無くて、この本はせめて「アンネの日記」を読んでからにしたいので読んでいる。ナチスドイツ含め第二次世界大戦に興味があり、いつかアウシュヴィッツなどの収容所には足を運ばねばならないと考えているのだけれど、「アンネの日記」はなかなか触れずにいて、今ようやくきちんと読んでいる。ナチスに対して知りたいと考えるのは、人間が人間とは思えぬ行為を平然と行う異常(当時にとっては平常であるということ)な状況を知りたいからだろうか。知りたいのはナチスに対してだけではないのだけれど。この時代を知りたいのだった。少女の視点で紐解かれていく部分的に。

 *

 なんだか筆の進みがとても遅い、6時20分。墨夏を書く。

「今日はだめ」
 とやんわり昴は言う。今日は、と言うけれど、本当は今日も、だった。いつかは一緒に見られるかのような期待を抱かせるような言い方をするけれど、それは嘘だった。
 いつだったらいいの、という言葉をひなこが呑み込んだのは、昴を困らせたくはないからだった。ひなこはひなこなりに、大人たちが子供に言ってほしくはないだろう言葉を使わないように心がけていた。どうしてだとかこれが欲しいとかあれをやりたいだとかそういった出て行かなくなった言葉が増えていくほどひなこの声は減っていった。そのときに見せる曇り顔を見たくなかった。それは昴に対してもそうなのだけれど、昴は嫌な顔をあまりしなくて、どうして、や、なぜ、に対して穏やかに答えてくれるから、出てこなくなっていた言葉が溢れるように飛び出して、やがて困り顔が表れる。そのたび密かにひなこの胸は苦しくなる。
「ごめんね」
 先に謝られては、ひなことしては太刀打ちができないのだった。
「ううん」
 それしか言えなかった。
 あたしこそごめんね、どうしてだめなの、どうして一緒に歩いてくれないの。星を見ようよ。きれいな星を見て、いっぱい教えて。昴くんがすきだから一緒にいたい。夜だって昴くんがいたらこわくない、きっとお母さんたちだって少し遠くにいくことをゆるしてくれる。ちょっと歩いたって平気だよ。あのね、おばあちゃんの作るお野菜はおいしいんだよ、だから一緒に食べようよ、うちにおいでよ……。
 ふわふわと浮かんでは消える、星屑のように、流星のようにさっときらめいて虚空に溶けていく。姿を隠した言葉たちをひなこはひととおり押し込んで、ノートを閉じた。
 少し濁ってしまった空気を洗い流してくれるのは、いつも川のせせらぎだった。いつまでも流れていく永遠が沈黙をゆっくりとほぐしていくのを彼等はただ待っていて、ひなこは不意に草原に隠れていた小菊のことを思い出した。向日葵の黄色にも負けない、鮮やかな黄色い花びらをぎゅっと小さく丸めたような小さな花たちのことを。あの花を昴に贈ったら、彼はこわばった表情を弛めて笑ってくれるだろうか。でも、きっとあの小菊は、誰かがあえてこの場所に置いていったもので、それを横取りするのは良くないことのようにも思った。「今日は、このくらいにしようか」
 昴はぽつんと提案した。
「もうすぐきっと、雨が降るから」
「雨? こんなに晴れてるのに?」
 ひなこは目をまたたかせる。
「うん。あれはだいぶ大きな入道雲だから。下の方がくすんでいるでしょう。きっと強い雨雲を連れてくる」
 正面の入道雲はどんどんと大きくなってきていて、言われてみれば眩しいばかりの白い雲ばかりでなく、その影は暗い。とはいえ、まだ随分と遠いように感じられた。
「お昼の時間も近くなってくるしね。夜の星をきちんと見たいなら、今は休んでいた方がいい」
「明日も会える?」
「うん。きっとね。でももし雨が降り続いたら来てはいけないよ。川の流れが急になって、危ないから」
 それはお父さんにも何度も言われてきたことだった。今だって、お父さんの言葉を無視してひなこはここにいる。
「そしたら、今日の夜のことを話してよ。明日の朝、晴れていたらきっといるから。僕も星を見るよ。隣じゃなくたってどこかでひなちゃんと一緒にいる。夜は遠くのものを近くするから」




0918

 起床してしばらく。だいぶぼうっとした。今日の朝の空は曇っている。雲の裾に薄らとオレンジのもやがかかっていて、けれど鈍い色をしている。色を溶かして、ゆっくり、ゆっくりと広がっていくような気配がある。部屋の空気の湿度が高く濁っているような感覚がして気分が落ち込むので外に出ると軽くて、ようやく息ができたという感覚がある。気分に左右されない生き方ができれば良いのに、いつだって気分次第でどうにでも変容する。そういう部分は時に大人げない。

 少し前からハイキューの沼に入っているのだけど二次創作にいかずにリアルの男子バレーの方に少し興味が湧いて二日前くらいからYouTubeで動画を見るようになってそれがすごく面白い。今までも全日本の試合をテレビで見たりすることはあったけれど、よく見る日本での試合の応援のあの応援・ライブ会場みたいな雰囲気が少し苦手なこともあってだいぶご無沙汰していた。観戦するとき、やっぱり豪快なスパイクやサーブがどうしても目立つのでそういったところにばかり目が行きがちだったのだけれど、漫画でまずルールや基本的な動作の名前や戦術だったりいろいろ知識が入ってきたのを現実で実際に見てああこれかと理解するといったようなすんなり感でとても楽しい。セッターの上げるトスの放物線に目がいって、リベロの上げるサーブレシーブに目がいって、巻き戻して何回も見たりとかして、この競技は美しいんだな、と感心したりなどしていた。バレーボールは、自分でやる分にはほんとうに良い思い出がまったく無いので、体育でやってきた各種球技の中で抜群に嫌いなのだけれど、見る分には好きになっていく。一瞬しか当たらないボールをどうやってコントロールするんだと今でもものすごく思う、それなのに自在に扱う人たちがいて、ボールはあれよあれよとコートを行き交う、一瞬だけ触れるその動作たちによって躍動する、その緩急がきれいだった。男子バレーは繋ぐところからの最後豪快なスパイクがたいへんに爽快なのでそういったところもとても良い。トスがふわっと上がってきもちのよいタイミングで跳びこんでくるスパイカーのタイミング、ドンピシャ、な瞬間は、なんというかセッターすごいことが素人目にも分かるので楽しい。当たり前だけれど打つだけの球技ではなくて繋ぐ競技なのだという、それはハイキューでも言われていることだった。知識が出来て見る幅が広がると一気に興味が湧いてきて、そういう人たちがYouTubeのコメント欄にもたくさんいて仲間……!となる。きっと部活でバレーをやってきたり今もバレーをやっている人だったりもいれば、素人仲間もいたりしてそれもまた楽しい。そしてハイキューの名をどこでも見かけるのでこの漫画の影響力のすさまじさを感じる。テニプリしかりスラムダンクしかり、名スポーツ作品は確かなムーブメントを起こす、それがやっぱり名作たる証みたいでそりゃあ影響される理由もよくわかる。躍動する選手やストーリーを見ると追いかけていってしまいたくなるのだ。でも私は決してバレーボールをやりたいとは思わない。巧い人のきれいで猛々しい連携を見て楽しむ競技で個人的にはそれでとてもちょうどいい。その裏にある泥臭い何万という練習の積み重ねの上に成り立つあの面白さ美しさ格好良さをずっと観ていたい。
 小川洋子の「ミーナの行進」の「私」とミーナは、バレーボールを実際にやろうとしていた。オリンピックの男子バレーに熱が入り、お母さんに贈ってもらったバレーボールを使って練習した。セッターに特に憧れたミーナ。最初から実際の試合を見てセッターに注目できるというのはすごいなと思うのは私がずっと単純にスパイカーばかり目に入っていたからだろうか。目立つ行為は目を引き寄せる、その直前のボールをセットする存在、彼等の技量なしには素晴らしいスパイクが打てない。そこに魅力を感じたミーナの熱の籠もった解説が読んでいてもものすごく熱かったことを思い返して再読したくなってきた。

 旅をしたい。
 と、何度言うつもりなのかわからないけど何度も思う。旅をしたい。ここを離れたい、と、考え続けて三千里、なわけはない。旅に出て本を読みたい。いや、本はいつだって読めるしどこだって読める。いつだって私は何かから逃げようとしているような気がする。逃げたいのか、行きたいのか、よくわからないけど行きたい、と思っている、行きたい、が自在にじゃあ行こう、となれる世の中はいつくるのだろう、それとも案外この連休は誰も彼も出かけたりするんだろうか、というのを先日なんとなく宿を探しているときけっこう予約で埋まっているのを見て思った。世間は明日から四連休。四日も休みがあったら国内ならどこへだって行けちゃいますよね。私は今日働いて明日もなんとか働いたら三連休で、立派なものだ。三日も休みがあったらたいていのことはなんだってできるのだ。でもどちらかというと体調も生活も崩れている中なのだから生活を今度こそ整えた方がいいんだろうな、と澄んだ朝の風にあてられながら思う。風が涼しくて身体が冷えていくけど籠もった部屋の中にいるよりかまだ少しましなように感じている。いつのまにか厚かった雲が移動して、いや、ほんとうはもともとそこまで厚くもなかったのかもしれない、暗くてよくわからなかっただけで。うっすらと青空が見える。全体的にもうもうと煙のように広がる雲である。遠出はしなくても本屋は行こう、そしてどこかでコーヒーでも飲みながら読書をしようこの連休。本屋に行く前に積んでいる本を読みたい。夕べは寝際に「アンネの日記」を読んで、うとうととしていたら眠りに落ちた。旅をしたいと思って旅ができて、ベランダに出たいと思ったらベランダに出られるこのささやかな自由があることも幸福だろう。爆撃音のない穏やかな空。戦争を知るひとたち、爆撃音を知るひとたちが、急にその音が消えて終戦となったとき、果たして広がる無音についてどんな感情を抱くのか、いえ、彼等は生活を続けるのです。戦争の終わった生活を続けていくのです。生きていくのです。でもそうして終えられなかったひとたちもいる。アンネ・フランクのような人間もいればヴィクトール・E・フランクルのような人間もいる。人間でない生活をしていた頃のこと、と言ってもいいのだろうか、果たして。「夜と霧」では人間に戻った、とフランクルは書いた。ほとんど最後の方にある文である。収容されていた頃の描写を超えて辿り着いた文章。虐げられる人間も虐げていた人間も人間でなかった時代。人間でありたい。虐げられたくないし、できるだけ虐げないように生きていたい。虐げないためにはものごとを知り理解しようとすることだろうか。共存、と思う。共存、を一つのテーマにしていたように思う私の青春ポケモンブラック・ホワイトが今日10周年を迎えたらしい。おめでとうございます。頭の中で、懐かしいゲーム内での音楽が鳴り続けている。決して黒白交わらずとも、理解することはできるはずだった。理解、というとなんだか大袈裟だけれど、目の前にいる存在を思い遣るということを意識して今日は生きていこうかと思う、そうこうしている間に7時になろうとしている。小説を書く、という気分に最後までなりきれなかった。いつまでも気分屋なのはいただけない。明日は書こう。



0919

 起床。五時のアラームにまったく気が付かなくてはっと目が覚めたら5時半だった。
 朝こうしてそのとき書きたいことを書こうとしているのに夢の話をまったくしなかったのだけれど、それは夢を全然見てこなかった、覚えていなかったからで、でも今日は久しぶりに夢を見て、それをものすごくはっきりと覚えている。中学時代の友人が出てきた。けっこう驚いた。なんかぬいぐるみの上を踏み抜いて歩いていくというよくわからないアトラクションのようなところに並んでいて、前にいたのがその友人だった。お互いとても驚いて、久しぶりだという話をしていて、私はなぜか当時と違うニックネームでまず呼んだ。名前をもじっていたのに何故か苗字をもじったニックネームでヨッシーと言っていて、彼女のことをヨッシーと呼んだことは一度もなかったし彼女がそう呼ばれているのも聞いたことがなかったのにヨッシーと言っていた。言っていてとても違和感があって其れは何故だろうと思っていて夢では全然自覚していなくて、夢から覚めてすぐにいやヨッシーじゃないよと気付いた。ヨッシーというニックネームはごくありふれたもので彼女に対して以外なら充分に存在しているのだけれど、何故私はあの時ヨッシーと言っていたのだろう、咄嗟にヨッシーと叫んだのだろう、まあ夢に対して疑問を持ったところで仕方がないけれどそこは不思議だった、夢の中で再会し、興奮のまま立ち話をしていて順番が回っていって、ヨッシーに彼氏がいるという話になったところでヨッシーに順番が回ってきてヨッシーはぬいぐるみを踏み抜いていった。やわらかい海の上にいくつも浮かんだぬいぐるみを踏みつけて進んでいき、私もやがて続いていく、ぬいぐるみはなんともやわらかく足を包んでくれてきもちのよい触感でリアルのベッドに置いてある巨大なホエルオーのぬいぐるみを踏んだ感覚と酷似していた。そこからは延々とぬいぐるみを踏み続けていて目が覚めた。そしてヨッシーじゃないとまず思い出したのだった。全然おしゃれな夢ではなくどちらかというとシュールだったけど昔の仲良かった人と出会った時の興奮とかはリアルに近い雰囲気で、例の如く私は特に自分のことをあまり話さずただ相手の話を聞いてし尋ねていた。一瞬ヨッシーに(ヨッシーじゃないけど)LINEでも送ろうかと考えてやめた。最後に会ってから随分と日が経ちすぎている。人について書く時はその人の名前やニックネームそのままではなく架空のニックネームや適当なアルファベット仮名にしたらいいと書いていて今更みたいに思った。

 夜、絵を描いていた。写真を見ながら絵筆をとって絵の具を水に溶かしてのばして描いていたけどびっくりするほど思ったようにいかなくて少しへこんだ。綺麗だ、と思えるものにならなくてそれは地味にダメージだった。描きながら、鮮やかすぎる、と思っていた。鮮やかすぎる、というのは、かつて子供だった時油絵を習っていた頃に講師の先生から何度も言われたことだった。絵筆をとるたびに先生の鮮やかすぎる、が蘇る。たくさんの言葉をもらっていたはずなのに、今でもよく覚えているのは「鮮やかすぎる」と「現実通りの色でなくていい」と「サインを描きましょう」だった。おじいちゃん先生で声を濁らせながらゆっくりと話してくれて、多すぎない言葉で、話してくれた。特に「鮮やかすぎる」と「現実通りの色でなくていい」には絵を描くたびに支えられているというか、自分で自分に言い聞かせているようで、私の中にいる先生が私に言っているようで、でもそれは私の思い出が言っているのであって先生ではないしどちらかというと私で、されど先生に今でも言われているような気がしているのだった。そうして昨日も「鮮やかすぎる」と思いながらでも絵はそれでも鮮やかなままでうまくいく感じがない。絵筆をとると油絵教室の頃に心が戻る、そうでありたいと思う、うまく描きたいというよりもただ絵を描くことに熱心になっていたあの頃に戻る自分でありたい。
 でもそうはいっても絵がうまくなりたい。絵をもっと手軽に描けるようになろうと思ってベッド横に置いていたテーブル(もともとは食卓代わりにしていた)を移動させて絵のためのスペースにしてみたら家具の配置がまたなんというかおかしな感じになったけれど絵を描こうと思ったらすぐに描けそうな感じの場所になった。まだもう少し改善の余地がどこまでもありそうである。形から入る人間なのはいつまでも変わらない。
 気持ちよく作りたい。気持ちよく生きていたい。そうしたことを追いかけていてはいけないのかしら。いけない、というわけではないけれどなんだか現実的に許されない感じもあってそれは一体誰の声なのだろう、と考えると一番大きいのは自分の声のような気がする。重い枷が足に填められていて鎖が繋がっていてそうである限りどこにもなににも羽ばたけないようで、なんだかつらいなとか考えたりする。社会人の責任うんぬんかんぬん。社会人の責任というか自分の人生に責任は持たざるを得ないんだ好きにさせてくれ~と思いながら堰き止めているのもまた自分の声だった。人生ってこんなにつまんないんだろうかと普通に生きてるとものすごく思う。つまんなくないのは本を読んだり文章を書いたり絵を描いたりしているからだろうか。そうして思い込んでいるのだろうか。つまんないなんてあらゆるひとに本当はものすごく失礼だ。も~やもやする。もやもやモーニング。中途半端に生きているのが一番まずい。そういった現実的な今やこれからについて考えているのは夕べ久しぶりに親と電話したからだった。
 旅をしたい。本を読んでいたい。文章を書いていたい、けれど文章なら今書いている。

 *


 墨夏を書く。

 昴の放った言葉の意味をひなこはうまく解釈できず、曖昧に首をひねった。
 それからは促されるままに、ひなこは昴に優しく手をとられ、もうもうと膨れ上がる積乱雲を背後にして葦の海を渡ると、もとの階段を登っていった。川に浸したような気持ちの良い昴の手を握って、いつまでも離したくないように指先に力を籠めた。足取りが重く、橋の上に戻ってくると昴の手はあっさりと離れてしまった。反対側へ行くという昴とはいつもここで別れる。
 昴の向こう側に鮮やかな入道雲、その雲のきれはしに遠雷の輝きを見た。鮮やかな青さに僅かな閃光。眩く太陽があたりを照らしている中で、何故だかひときわ目を惹き付ける瞬間をひなこは目の当たりにした。昴をじっと見ていたはずなのに、彼をすりぬけて遙かな空の軌跡を捉えたようだった。
 ひなこは目を一瞬伏せる。
「またね」
 昴は微笑んで手を振る。ひなこの心に気付かないでか気付かないふりをしてか、ただ、正しい方向へ導こうとする。夏の大三角形や夜空のすばるを語る星の案内人に、こちらですよと言われれば、ひなこはその方向へ向かう。
 ひなこは肯き、まだどこか納得しきれない顔で手を振り、家路を辿り始めた。
 その間、引き留められるのを期待するように何度も振り返るが、昴はひなこの望むようにはしてくれず、いつまでも手を振っていて、かたくなですらあった。
 カーブを曲がって川の音がどんどん遠のいていき、橋が視界から消えた頃、ひなこは弾かれるようにもとの道を戻った。ひるがえって反対側へと向かう昴の背中を後から追いかけるように。
 しかし、橋を再びひなこの視界が捉えた時には、少年の姿はもう無かった。

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