私はなぜ国際協力を辞めたのか

青年海外協力隊を経て、アメリカ暮らしをしたのちシルク・ドゥ・ソレイユで世界各国を10年ほど働きながら旅してきた経験から、日本の記事を比較・考察し、つぶやいているUmiです。

協力隊をはじめ世界に目を向ける人たちが減っているようだ。日本てホント平和な国なんだなぁ。。

私は青年海外協力隊経験者で契約の2年を満了し、国際協力を辞めた。

理由は2つある。

1つ目は国際協力の現場に立ち、現地の人々と接する中で、自己欺瞞に耐えられなくなったからである。救うこととは、彼ら自身が自らの意思で立ち上がり、未来を切り開いていけるよう、自立を促すことである。

そうしない限り未来は続いていかない。そこには共に歩むことでしか築いていけないものがあると思った。そのためには途方もない時間と労力、失敗、裏切り、挫折など多くの困難が待ち受けていることを身をもって痛感した。

人と関わらない援助は浮浪者に小銭をあげるのと同じで、形だけの、その場しのぎのものにしかならないのではないか。お金をばらまけば多くの貧困者をその場しのぎで救えるかもしれない。

だが、いっとき生き長らえるだけで、再び援助の手を待つことしか出来ない貧困者に戻るだけではないのか。いったい彼らの中のどれだけが、自らの意思と力でそこから立ち上がり、前に進むことができるのであろうか。

そんな途方もない問題に本心から飛び込んで行ける勇気が自分にはなかった。自分がやっているのは青年海外協力隊という肩書きを後ろ盾にした正義ごっこではないのかと。

そうでなければ自費(本来のボランティア)で来て同じことをするかと自問したら、しないというのが自分と向き合って出した本音だった。がむしゃらに若さと正義感で活動はしていたが、骨をうずめるほどの覚悟がなかったのだ。

覚悟のない行動は伝わらないと思った。そんな中途半端な行動は、他人をも自分自身をも欺くだけの行為(=欺瞞)でしかなく、双方をより一層苦しめることにもなりかねないと。

それならば、「今」やりたいことを、やれることを、例えそれが人助けにならなくとも、精一杯やることが自分と向き合うことだと思った。少なくとも自己欺瞞にはならないと。

それが渡米であったし、シルク・ドゥ・ソレイユだった。本気の姿はそれを伝えようと思うが思うまいがに関わらず、誰かに伝わると思った。自分が幸せでなければ、他人なんて幸せにすることはできない。

援助する側だって、援助すること・共に歩んでいくことが幸せであると思えるからこそ、それは伝わり、分かち合え、それが本当の意味での未来への一歩になっていくのだと思う。その覚悟がないうちは私に国際協力(ボランティア)はできない(やらない)と思った。

多くの青年海外協力隊経験者も帰国後は一般的な仕事に復帰している人を多く散見する。中には私と同じように大志を抱いて途上国に赴き、自分にできることの小ささに絶望感を覚えた人も少なくないのではないだろうか。

生半可な気持ちで達成できるようなものではないのだと痛感させられても不思議ではない。ただし、そのことを実際に体験し実感した人間と、していない人間とには確実に大きな差がある。小さいことの積み重ねだからこそやらねばいけないということを身をもって知っているはずである。


2つ目。

ここで国際協力のある矛盾を例にあげて説明したいと思う。我々先進国や都市に住む人々は公共施設や各家庭に電気やガス、上下水道のある生活を送っている。

そしてそれらは私たちの生活に欠かすことができない便利なものである。そこでインフラの整っていない僻地の村の生活の安定や衛生面などを考慮して行政が電気や上下水道を引くことを提案する。村ではその事について話し合いが持たれる場合もあるし、村長や権力者の一存でどちらが良いのかを決めたりもする。

そしてこれが一つの問題でもあるのだが、時には行政が半ば強引に推し進める事もある。

さて電気や水を引くこととなった村はどうなるだろうか。これはあくまで事例なので必ずしもそうなるとは限らないことをご理解いただきたい。

まず村に電気や水が通ることによって公共料金が発生するようになる。いままでお金を必要とせず生活していた村人はお金を稼ぐ必要に迫られる。老人や子供は働けないので若者が町に出稼ぎに行く。すると、若者が村から少なくなるので、自給率は下がる。町へ出稼ぎへ行って戻って来る若者もいれば戻らない者もいる。

お金を外で稼げるようになると、家族や村のみんなに町から買い物をして帰ってくる者もいる。それはスナック菓子であったり缶や瓶詰めの食べ物や飲み物、日用品など。ではそれらのゴミはどこへ行くであろうか。

そう、そんな僻地にはゴミ収集になど来ないのだ。私が訪れた村々でもゴミがそこら中に落ちていることもあった。そもそもゴミをゴミ箱に入れるという概念(常識)すらそこの環境にはまだ定着していないのだ。

それが環境問題や土壌汚染にもなり、農業が衰退。人口減と環境問題の悪い連鎖を繰り返し、結局村が衰退してしまうということも実際に起きている。

このようなことが原因でなくても、発展することで土着の生き方が失われることもある。

これで果たして発展が良いと言えるのか? 私にはわからなかった。わからない以上やれないと思った。だから辞めた。

それでも協力隊には肯定的だ。確かにボランティアは日本であろうと海外であろうとどこででも誰にでもできるし、結果を重視するならもっと良い手法もあるだろう。

だからといって国内にとどまる理由にはならない。多くの人に途上国の現状や生活を見てほしい。行ってみて体感してほしい。自分がどれだけ幸せで恵まれているのかを知ることは、今のあなたの生活を必ず豊かなものにするいいきっかけになるし、長い目で見たり教育的側面で見ると双方にとって良い事業ではないかと思う。

人間社会で最も大切なものの1つは教育だと思っている。人は人によって刺激を受け育てられる。年齢、性別、人種、立場や役職がどうであれ、いい面も悪い面も全て。

私は協力隊として援助する側、教える側として派遣されたが、たくさんの方たち(子供たちも含め)に現地での生き方を学び助けられた。

多くのものに触れ学べばより深い思考の可能性が広がる。いい人間が多く育てばその分母は広がり、自然といい人間が多くなる。

あなたは誰かに教育できる人間であろうか? 

見本となれる人間であろうか? 

心地よい(狭い)世界だけに留まるのを制止はしないが、もっと広い世界にも目を向けてほしい。そのあとで心地よい世界に戻ってくることもあなたには可能なのだから。

一緒に旅を充実させませんか?