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記憶は美化されている= GOOD for me.

SNSやドラマをみて
時折思うのだが

私の学校生活は
総じて楽しかったように思う。

特に目立つ生徒でもなく
友達がものすごく多かったわけでもなかったが

毎日朝早く起きて
慌ただしく準備をして
走って学校に行き
時々眠くなりながら授業を受けて
休み時間に友人と他愛もない話をして
部活では切り替えて
帰宅してからも次の日のことを考える。

面倒くさかったが
嫌じゃなかった。

属していた学校やクラスを振りかえっても
ものすごく嫌な人もいなかったし
ものすごく悪い人もいなかった。


ある程度
だれもが程よい距離感を保っている関係性で
平和な環境にいたように思う。


自分の話となると、
強いて言えば小学校4年生のとき、一度だけ、
同じマンションになった女の子に
ー父の転勤で少しの間ある地域にいたときー
ふざけたテンションで意地悪されたり
仲間はずれにされたことがあったが

周りの大人ー親ーに相談できなかったわけでもなく
友達や見方が誰一人いなかったわけでもなく

今思うとそれは一時的な期間に過ぎず
相対的な記憶として
その小学校4年生でさえも
「楽しい学校生活」であったように思う。



うな重
今年の丑の日は8月ないのね…


家庭環境が幅広く異なること、
それが自分だったら「都合の悪い」場合もあること。

習い事や受験どころか
日常の生活も全く異なるくらい差がある場合もあること。

そもそも人間には多様な性格の人たちがいて
自分にはなぜか理解できない、
きっと自分もどこかの誰かに
そう思われているのだろうということ。


それは
年や性別を超えて
多くの人たちと触れるようになる
大学生になってから知ったことたち。

(私のいた高校は
穏やかで安全な箱だった。
…と、我々の親達も思っていたのだろう。)




学生にもさまざまな凶悪な人たちがいて、
言葉だけでは強調し合えない人たちもいて、

でも、それは
子供だからでなく
大人になってからも同じであると思うのもまた
同じくらいの時期。


こんなに丁寧に
わかりやすく伝えているはずなのに。

自分の思いを
一つ一つ積み上げるように
発しているはずなのに。

相手には「?」となっている。


自分の世界、
現実社会も大事だが

やはりエンターテイメントや
創造の世界も
時に客観的な、
第三者視点で考えさせられる
きっかけとして、
なくてはならないものだと思う。

北海道はでっかいどうを感じた夏。でもキツネトビダシコワイ。。


あの頃ニガテだった
“ししゃも”が
今は酒のつまみにちょうどいいように

アレやソレの“感じ方”が
少しだけ変わっているのだろう。

でもきっと“価値観”は
意外と変わっていないような。


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