露往霜来(UM 水野敦人)
UM1年、グラフィックデザイン専攻の水野敦人です。
よろしくお願いいたします。
あっという間に入学から8ヶ月が経ちました。いつの間にか季節も冬になり、朝起きるのがつらい時期になりました。雪も降るのでしょうか。私の住む秋葉原に降っても何もロマンチックではないですね。今は少し課題も落ち着き、しかしバイトは忙しいといったところです。
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さて、テーマはこの1年間デザインを学び、そこで気付いた事は何か?そしてデザイナーに成るためには? ということについてです。
永井先生にこのテーマでnoteを投稿するよう指示が出た時、あれ? そもそも私はなぜデザイナーになろうと思ったかな? と思わず逡巡してしまいました。UMの面談でお話ししたはずなのですが、いざ言葉にまとめようとすると(少なくとも十数人に見られる文章であることを意識すると)うまくまとめきれないな、と感じていたのだと思います。
ただこれは自分にとってもいい振り返りの場にもなる、そう感じました。なので、私はどのような経緯でデザインを学ぼうと思い、そして入学し、そして今現在どう思っているのか、ということを書きたいと思います。稚拙な文章ですが、最後までお読みいただきたいと思います。
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東京デザイナー学院に入学する前、私は美術大学で油画を専攻していました。そこで学んだことは、あくまで芸術に向き合う自分たちそのものの再定義のようなものでした。
なぜ芸術を学ぶのか?から始まり、なぜ芸術は存在するのか?そしてなによりも、芸術をわれわれはどうしてゆくのか?
そこで芸術に対する認識は180度変わり、そして90度変わりました。もともと芸術とは一切関わりのない、中高大一貫の学校に通っていた自分にとっては每日価値観が変わっていくといっても過言ではありませんでした。
芸術は意味のないものではないということ。歴史と密接に関わっていること。複製技術が生まれたことにより、芸術の価値は変化したということ。変わったこと、意味のわからないことをするだけのものは芸術ではないということ。現代アートの全てに意味があるということ。芸術のほぼ全てが「人のため」であること。
そして現在の日本でそれらはほぼ知られていないということ。
そして、それをどうにかしようとする作家は、けして多くないということ。
これは私の中で弾けたことのほんの一欠片です。
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日本にはかつて素晴らしい芸術、デザインの歴史がありました。しかしグローバル化、高度経済成長期に伴い、芸術、音楽等の文化を学ぶ時間は削られ、素直な知識を求められるようになりました。
結果的に日本の芸術は、プレカリアートとダダイズムの信念が混合され、そこに確かな技術と過去へのリスペクトを持った、アートを肯定的に見る人へ発信されてゆくアートへと変わり、それを意図的に作る人々が産まれました。そして日本の芸術はそれを追うようにガラパゴス的に発展してゆきます。
その上に立っているのが我々なのです。
つまり、生きる上で芸術の知識は必要ではなく、芸術を学ばず、アーティストやクリエイターへのリスペクトがあるとは言い難い、しかしアーティストやクリエイターにはすでに生きる土台が出来上がっている、半ば絶縁状態のようなこの日本に産まれ落ちたわけです。
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私が美大で最も恵まれたことは、この状態に危機感を覚える同級生が沢山いたということです。
このままでは私達の本当に伝えたいことは伝わらない。なぜなら私達が本当に思いを伝えたい人は、朝起きて、部屋の外に出て、ご飯を食べ、服を着て、靴を履き、玄関を出て、電車に乗り、道を歩いて、お金を払いギャラリーや美術館に来るような人でだけではないのです。もっともっと煢然な人なのです。
私達は悩みました。先生となって少しでも学んでもらおうと考える人、ボランティア活動を通して伝える人、団体を作り少しでも芸術に触れてもらおうと思う人、雑誌を作り配って回る人、路上でパフォーマンスを行う人、様々です。
しかし、私はまだ悩んでいました。
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芸術のほぼ全てが「人のため」であること。
これは4年間の学び、そして何よりも人生のうちで確信したことです。押し付けではなく、確実にそうなのです。私もそれを感じた一人なのですから。
それが誰かのためになるかはわかりません。しかし作った側は必ず誰かのことを思い制作しています。けして自己満足ではありません。芸術とは共鳴である。そう感じます。
じゃあ私はどうすればいいのか。もっともっと多くの人に見てもらえるようにするにはどうすればいいのか。
誰の目にも触れられるものを作ればいい、そう思いました。
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かくして、私はデザインの専門学校に入学しました。
そしてもっとも意外と言ってはなんですが、美大で学んだこと、ここで学んでいることの根本は、まったくもって同じです。人のために作る、それだけです。
もちろん、デザインと芸術では直接的な影響の大きさや信条に違いはあるでしょう。しかし、つまるところ、人のためにという思いは一致していると感じます。
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さて、頂いたテーマについてお話すると、デザインにおいての気づきはとても多いです。どこをどうすればきれいに見えるか。どのように作品を作るか。どのように伝えるか。そしてどうすればもっとよくなるか。每日が発見の連続です。そのたびに落ち込んで、やらないとと奮起します。それらが人のためである以上、目を背けるわけにはいきません。
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この年齢で、未だに学ぶことが多い。本当に困ります。自分より若く、才能があり、活躍しているデザイナーなんてごまんといるのですから。これで躓いている自分の価値はまったくないのでは? そう思うこともあります。
しかし、この年齢で、未だに日々価値観が変わってゆく。こんなに贅沢なことがあるでしょうか。
本を読む。スポーツをする。映画を見る。写真を撮る。事象から楽しさを奪っていくのは「慣れ」です。
その「慣れ」が一切起こらない。
デザインは価値を高める事ができます。
もしかすると、デザインは学びにすらも価値をもたせてくれているのかもしれません。
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気づいたことは多いと書きました。もちろん技術の面に関しては数えようがありません。そして周りのクリエイターや先生方へのリスペクトも産まれました。一つのデザインのために異常とも言える熱量を捧げる姿。熱量は技術を高めるガソリンのようなものだと思います。
また精神面、私はこちらの気付きにとても価値があったと思います。それは先述したように、デザインも芸術も人のために存在するということ。過程、形、社会的用途、クライアントの有無、それらは違えど根本の思いは変わらない、そう感じています。
では、デザイナーに成るためには?
技術的な面で言えばありすぎるほどです。いまだにすべての課題に真摯に向き合う事はできていません。一つのものを時間をかけ形にしていくということをしてきた私にとって、いくつもの課題を並行して行う今の授業には、あまりにもついていけていないと感じます。
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ただ美大に入学した頃は、なぜ絵を描くのか? それにすら答えを出せていませんでした。しかし、それについて考え、また努力するうちに自ずと答えは産まれ、また新しい疑問が産まれてきます。
この1年で学んだ、デザインとはなにか?
芸術は、精神においての共鳴であると思います。デザインも近いものであると思います。モノの価値を高め、それに携わる人々のためになるもの。さらにあわよくば人の心を震わせてしまう。とても付加価値の多いものであると感じます。
デザイナーに成るためには?
今は、デザインの向こう側に人がいると常に意識すること、これが出来るようになればおのずとデザイナーに成れるのではないだろうかと思います。いまはそこにすら立てていない。
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気づけば、もう冬です。自分に力はついているのだろうか? 焦慮に駆られる日々ほど心臓の鼓動を早めるものはありません。急く身体をどうにか有効活用して過ごしていきたいと思います。
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UM 水野敦人