海は嫌い
小さな改札口を抜けると、都会とは異なる匂いがした。
土曜の午前にもかかわらず、陽射しが容赦なく肌を刺す。台風が徐々に日本に接近しているからか、海からの潮風は強かった。
ひとが三人も並べばすれ違うことのできなくなるような駅前の商店街はさびれていた。この商店街は湘南の海岸に続いている。シャッターが閉まったままの店。商店からただの住宅と化したしかめっ面した真っ白の玄関。商店街とは名ばかりで、まるで最近のとうもろこしのように商店街はまだら模様になっていた。
ぼくはひさしぶりに湘南の海に来た。元カノとの思い出を洗い流したかった。
電車が去った商店街は、ただペタペタと歩く人のサンダルだけがにぎやかな海への通り道に過ぎなかった。
どこか懐かしむように商店街を歩いた。
加山雄三さんの『海・その愛』が流れてくる。商店街の右側に構える薄汚れた看板を掲げた酒屋からその曲が流れてきた。焦げ茶色の壁に品数少なく一升瓶がポツンポツンと並んでいた。冷蔵庫には缶ビールが整列している。奥にいる店主と目が合った。白いTシャツを着た初老のその店主は顔が黒く、暇そうに座っていた。
歩く方へ目を向けると、ひとの後ろ姿が小さくなっていた。
側頭部から耳の後ろに汗が流れる。時おり強く吹く潮風から砂の匂いがした。
住宅や空き地も増えてきた。活気があるのは洋曲が流れてくるサーファー相手のカフェバーくらいのものだった。
商店街を右に曲がると、ずっと向こうには車が横切るのが見えた。車の上には海が見える。湘南の海だ。
砂浜の階段に腰を下ろし、ぼくはボーっと湘南の海を眺めていた。
太陽は着ていたリネンシャツを漂白し、潮風はぼくの髪を洗い流した。
台風が来ているからか、波が高く、泳いでいる人は少ない。その先には、サーファーたちが点々としていた。台風接近中の今こそビッグチャンスだとばかりに色めき立っているようにみえる。
ふと、学生の頃のバイト仲間を思い出した。密かに思いを寄せていた女の子だった。
色白で大きなレンズのメガネをかけていた彼女は湘南に住んでいた。本が好きで、幼いころから地元の図書館に通うのが好きだと言っていた。
「湘南っていいね、海があって」とぼくが話しかけると、彼女は伏し目がちに「湘南は好きです。でも海は嫌いです」と小さな声で答えた。
ぼくは、「そう」とだけ答えた。これ以上、彼女の物憂げな顔を見たくなかった。その白い肌がなにかを訴えているようだった。
あとで彼女の友達から聞いたのだが、幼くして彼女の父親は海で亡くなったらしい。台風のさなかにサーフィンをして波にのまれたそうだ。
今頃、あの子はどうしているのかな。
午後4時を過ぎ、海岸をあとにする。
喉が渇いた。コーラでも飲もう。商店街の薄汚れた看板を掲げたあの酒屋で冷えた缶コーラを買うことにした。お店に入ると、ウクレレの音が聞こえてきた。今度はTUBE の曲『BEAUTIFUL WORLD』が流れていた。夕方の海にウクレレの音がやさしい。レジに缶コーラを置いた。立ち上がった店主の目じりにはしわが深く刻まれていた。店主の背後の壁棚にはちょうど座った目の高さに観葉植物の鉢とフレームが木目調のフォトスタンドが置いてあった。
缶コーラがひんやりする。どこで飲もうか。商店街の脇の路地に入り、ひと気の少ないところを探す。駐車場のとなりにこじんまりした図書館をみつけた。ずいぶん小さな市民図書館だった。図書館の前の駐輪場には自転車が5,6台置いてある。一番遠くの網目のフェンスに横たえた錆びた自転車を見つけた。こんなに錆びているので、放置自転車なのだろう。そのサドルにちょんと腰を乗せ、フェンスに身を預けて、ぼくはコーラを開けた。4時を過ぎても青空の太陽がまぶしい。缶コーラも汗が噴き出し、持つ手を濡らした。
図書館の入り口のドアが開いた。
中からトートバックを肩にかけた女性が出てきた。三十代くらいのその女性はメガネをかけ、ゆるゆるのズボンに上半身はグレーの夏用パーカーを着ていた。ボブの髪が顔を覆い、そこからのぞく彼女の顔は白く、日焼けから守っているようだった。
ふと、浜辺で思い浮かべた海の嫌いなあの彼女を思い出した。
図書館から出てきたその女性はこちらに向かって歩いてくる。自転車でやってきたのかな。トートバックに軽く両手をかけ、目を伏せがちにゆっくりとこちらに向かってきた。
コーラを持つぼくの手が口元から太もものあたりに下りる。
まさか。
とうとう目の前にやってきた。サドルから腰を浮かし、ぼくは放置自転車の前に立つ。
まさか、あのときの彼女か。ともに色白だけど、面影はあるような、ないような・・・。
そんなドキドキしているぼくをよそに、目の前の女性は目を合わさず一瞬会釈をして、ぼくの背後に来ようとした。
女性はおもむろに網目のフェンスにかけてあるワイヤーロックに手を伸ばした。ぼくはワイヤーロックがこの自転車のハンドルにかかっていたのを今気づいた。この錆びた自転車は放置自転車ではなく、彼女が乗ってきたものだった。
ぼくは火照った顔がさらに熱くなるのを感じた。
女性はロックを外し、トートバックを前かごに入れて、錆びた自転車に乗った。海岸の方へ向かって漕いでゆく彼女からは、まだはっきりとした黒い影がアスファルトに伸びている。
太陽を見ると、もくもくと入道雲が迫っていた。
コーラを飲み干し、空き缶をナップザックに入れた。時間もあったので、ぼくはこの市民図書館に寄ってみることにした。小さな入り口のドアを開ける。学校の図書室ほどしかない広さだったが、奥には談話室もあった。ふと、壁に貼ってある掲示板【おしらせ】に目を向けた。【紙芝居の日程】という欄を見ると、【毎週土曜日 語り手:井上愛】とある。昔バイトで一緒だったあの彼女の名前だ。やはり。
よし、来週も来てみよう。
一週間後の土曜夕方、台風は過ぎ去ったが、あいかわらず暑かった。ぼくはもう一度、湘南の市民図書館にやってきた。駐輪場には自転車がたくさん置いてある。一番遠くの網目のフェンスのほうを見ると、錆びた自転車が置いてあった。
建物の中に入り、受付に立つ年配の女性に訊いてみる。
「あのー、紙芝居はどちらでやっているのですか?」
女性は右の手のひらを談話室に向けた。
「あちらでございますが、きょうはもうご参加できません」
「はい、すこし外から覗かせていただきます」
ぼくはそう言うと、談話室へ向かった。談話室のドアの窓から中を見る。
紙芝居を持つ女性は、先週錆びた自転車に乗って帰っていったあの女性だった。
あのひとはやはり井上さんだったんだ。
畳に座る子供たち12人とその後ろに座るお母さん方に向かって、井上さんは身振り手振りで語っていた。子供たちは身を乗り出すように聞き入っている。部屋の片隅には12個のオレンジジュースのような飲み物がテーブルに置かれていた。
ぼくは受付に戻り、先ほどの女性に訊いてみた。
「あのー、紙芝居についてなんですが」
「あっ、お子さんの参加希望ですね」
「えっ、まあ、そんなところですが、あの紙芝居の語り手さんはボランティアなんですか? どういうかたなんですか?」
「井上さんと申しまして、最初ボランティアでやらせてくれないかとお見えになられました。なんとか市の許可が出て半年ボランティアでやっていただいたら、子供たちの評判も良く、参加人数も増えて、市がその実績を認めてくれたんです。今では少ないでしょうが報酬も出ていると思います。あの紙芝居はご自身で創作されてくるんですよ。毎週、新作と過去作の2本を1時間で語るんです。すごい努力家なんですよ」
ぼくは何度も相づちを打った。
「子供さんたちも毎週土曜が待ちきれないんじゃないですか」
「おっしゃるとおり。どんどん参加人数も増えてきて、市では週2回も検討しているそうです。さらに不登校の児童さんや障害者さんたちへも検討しているらしくて。また、紙芝居を見たあとの子供さんほぼ全員がここで絵本など借りられていくようになりました。ありがたいです。じつは、井上さんはこの地に生まれ育ったんです。幼いころ、この図書館ができる前は別の図書館に通っていたんですよ。わたしもそのときから存じております。本が好きだったんでしょうね。でも、ここだけの話ですけどね、井上さんが小学校低学年のときにお父さんが海で亡くなられたのよね。台風の日にサーフィンしに行って。そのとき一緒にサーフィンしてたのが商店街の酒屋のご主人。でも、彼は助かったのよね」
ぼくは息をのんだ。
「えっ、あの商店街の色黒の酒屋さんですか?」
「そう。だからだと思うけど、紙芝居を始めた井上さんの話を聞いて、酒屋のご主人がオレンジジュースを毎回サービスで届けてくれるのよ」
「そうだったんですか」
ぼくは建物を出て、錆びた自転車の前で井上さんを待った。
子供たちがお母さんと一緒に出てくる。地面に引きずりそうな大きなカバンには夢が詰まっているのだろう。
最後にトートバックを肩にかけた井上さんが出てきて、こちらに向かって歩いてきた。
ぼくは彼女の目を見た。
「井上さん、おひさしぶりです。ぼく渡辺です。覚えていませんか? ほらバイトで一緒だった」
「・・・・・・ああ、バイトの渡辺くん! 覚えてます。もしかしたら先週もここで・・・・・・」
「はい、その通りです。2週連続で来ちゃった。あのー、紙芝居の語り手さんやってるんですね」
「先週は失礼しました。全く気づかずに。紙芝居は、はい。この街に育ててもらったから、わたしは恩返しがしたかったんです。子供たちにこの街を好きになってもらいたくて」
「そうですか。そういえば、一緒にバイトしていたとき、『湘南は好きです』って言ってたもんね。でも『海は嫌いです』とも言ってた」
「うん。わたしは今でも海が嫌いだけど子供たちには好きになってほしいな、っていう願いで海や魚たちの物語を多く書いているんです」
ぼくははやる気持ちを抑えた。
「その物語、僕も聞きたいなあ。このあと一杯どうですか?」
「あっ、このあと紙芝居の絵を描かないといけないので、本当に一杯だけなら。いいお店知ってるんですよ。じゃあ、荷物と自転車を家に置いて、ここに戻ってきますね」
「はい! 待ってます」
見送る錆びた自転車から、影がすこし長く伸びていた。ぼくはまた井上さんの海が嫌いな理由を聞けなかった。
井上さんに連れてこられたのは、商店街のあの薄汚れた看板を掲げた酒屋だった。ウクレレが心地よい。またTUBE の曲だ。
「おじちゃん、こんにちは! ビール2本ね」
「おー、愛ちゃん。いらっしゃい! めずらしいな、彼氏か?」
「違うって」
「今、椅子持ってくっからな」
井上さんがぼくに微笑んだ。
「このお店、常連さんだけ立ち飲みOKなのよね。あっ、椅子に座れるけど」
「へー。きょうからぼくも常連さん!?」
「うん」
ご主人が椅子を持ってきてくれた。ぼくらはその椅子に腰かけた。
ご主人が500mlの缶ビールを2本と、おしぼりを持ってきてくれた。ぼくらは缶ビールのタブを開ける。
「カンパーイ!」
缶ビールでぼくらの再会を乾杯した。
キンキンに冷えたビールが喉を、心を潤す。
井上さんが手を伸ばして、ナッツの袋を2つ取ってくれた。
ご主人が目じりのしわをさらに深くしてぼくを見た。
「あれ、先週も来てくださったでしょうか?」
「はい」
そう答えると、ご主人はバックヤードに引っ込んでいった。
井上さんを目の端でとらえると、頬が赤くなっていた。
目は正面をじっと見つめていた。その先には木目調のフォトスタンドが。
海でサーフボードを持つ上半身裸の2人の若者が写っていた。
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